今日は、9月2日。
二百十日の次の日、
すなわち二百二十一日。
立春から数えて、210日目を二百十日という。
台風襲来が始まる時期。
そしてこの二百二十一日は、
私の57回目の誕生日。
目出度くもあり、
目出度くもなし。
よく生きてきたという感謝の念、強し。
それにしても、8月も、小売業の営業は芳しくなかった。
大手百貨店5社の8月の既存店売上高が一番最初に発表された。
前年同月比8~11%マイナス。
衣料品不振、月末の台風来襲、衆議院選挙の影響、などなど。
9月も、依然、状況は変わらず。
「無呼吸泳法」は続く。
さて、9月最初の日は、関西へ。
兵庫県の伊丹市、関西スーパーマーケット。
昭和52年以来、32年間。
何度、ここに通っただろう。
昭和53年の初めには、
「関西スーパー1週間研修」をさせていただいた。
ちょうど、伝説の店「広田店」がオープンした後で、
この店は、日本中のスーパーマーケットのモデルだった。
私はそのモデル店で、
青果・鮮魚・精肉・店長実務など、
1日ずつ研修を受け、取材をし、
『販売革新』誌に、連載特集を書いた。
高橋英松さんという先輩記者と、
入社したばかりの1年生記者の私。
高橋さんは、2~3日やってきて、取材。
私は1週間泊まり込みで、研修と取材。
そしてやがて完成したのが『関西スーパースタディ』。
これは日本のスーパーマーケットの教科書になった。
そしてこれが、私の原体験となった。
商業の世界の応援団で生きていく決意をさせた。
その時からの大恩人・北野祐次名誉会長のインタビュー。
商人舎と商人ねっとの共同企画CDオーディオセミナー。
タイトルは「知識商人登場」
北野さんは大正13年のお生まれで、今、85歳。
20歳で徴兵され、幹部候補生となったが、
終戦を迎え、国鉄へ。
その後、山に魅せられて、
親に迷惑をかけるほどに、山へ。
しかし、本当によく働いた。
その後、結婚し、国鉄を辞め、
鰹節の卸売の商いに入る。
その取引先として、
スーパーマーケットと出会う。
このあたり実にドラマティック。
卸売りで、掛け売りの苦しさを味わっていた北野さんが、
その売掛金を回収に行った先で見たスーパーマーケットは、
お客さんが、わざわざ現金で買い物に来てくれるし、
セルフサービス方式で自分で買って下さる。
福岡県小倉の丸和フードセンターだった。
紀ノ国屋がスーパーマーケット第一号と言われるが、
地方都市の大衆相手のスーパーマーケット第一号は、
丸和という説も有力。
その丸和と、高知スーパーで、衝撃を受けた北野さんは、
自分もスーパーマーケット事業に乗り出す。
昭和34年12月のことだった。
だから今年、関西スーパーは50周年を迎えた。
その後、昭和42年、初めてアメリカへ。
ハワイの「タイムズ」という店の店長に言われた。
「食べるものだけ売るのが、
スーパーマーケットだよ」
これが、北野さんの原点となった。
そんな創業期の話から、
「関西スーパー方式」として名高いシステムづくり、
そして商売の哲学まで、
2時間余り、あっという間に時は過ぎた。
北野さんは、左眼が悪い。
(私は、右眼が悪いが)
だから、かつてに比べて、
北野さんの元気は、少し、欠けた。
しかし、今回の私のインタビュー、
快くお引き受け下さった。
依頼内容にも、丁寧に目を通され、予習の書き込みがあった。
その書き込みを、大きな虫眼鏡で見ながら、
お話しくださった。
しかし、スーパーマーケットの話題を続けていくうちに、
北野さんは、みるみる、元気になられた。
その様を、写真で見ていただこう。
300点ほどの写真から選りすぐった20点。
ご覧いただきたい。
日本のスーパーマーケットの基礎をつくった男の、
自分の仕事にかける魂のようなものが、
写真の表情や手振り身振りに、表れてくる。
「それはでんなあ」
手を広げ…。
「いやあ」
にこり。
人差し指で、テーブルを押さえ。
「なるほど」
「ジャンケンポン」ではありません。
「これが大事なんや」
顎に手を。
「ふむふむ」
最後は「人」です。
その人の「和」です。
そういって、北野祐次さんは、
大きな額の書を、指さした。
これが結論。
そして最後の写真。
私は、うれしそうな顔。
北野さんも満足そうな顔。
自分の誕生日の前の日の、
一生忘れられない対談だった。
その30分後。
本部下の関西スーパー中央店の写真撮影をしたあとで、
四人の懇談。
井上保代表取締役社長、
玉村隆司専務取締役。
そして柿木幹雄総務グループ総務チーム・チームリーダー。
皆さん、なぜか、安堵の表情。
ありがとうございました。
<結城義晴>