渥美俊一先生が亡くなられた。
7月21日午前2時、多臓器不全。
8月に84歳になられるばかりとなっていた。
6月28日に動脈瘤の大手術を受け、
その際に肺炎を併発。
そのまま集中治療室へ。
そして帰らぬ人となられた。
心からご冥福を祈りたい。
いつも、渥美俊一が見ている。
この思いを心棒にして、
生きていきたい。
仕事をしていきたい。
渥美俊一の遺志を受け継ぎ、
発展、進化させたい。
私の切なる願い。
昨日、今日、ご自宅で、
近しい人々とのお別れ。
私は、昨日、成田発15時のデルタ航空で、
デトロイト経由、シラキューズへ。
そしてコーネル大学の街イサカへ。
コーネル大学RMPジャパン第二期卒業旅行。
そのため、最後のお別れもできず。
23日に通夜、24日に告別式、密葬。
これにも参列できず。
残念でならない。
無念というしかない。
しかし、これもめぐり合わせ。
アメリカが大好きだった渥美先生とのお別れ、
アメリカ出張のためにできない。
大正15年、三重県松阪生まれ。
私の父も大正15年、満州は大連・旅順の生まれ。
もうひとりの実の父のごとく慕っていた。
1977年4月、㈱商業界に入社し、
すぐに『販売革新』編集部員として、
渥美先生へのインタビュー。
鬼のように恐かった。
それ以来、編集長の職を離れる2002年8月まで、
毎月、欠かすことなくインタビューをしてきた。
入社の年の秋には、箱根彫刻の森ホテルで、
中堅育成セミナーに参加した。
幸いにも、1番の成績をいただいた。
入社翌年秋には、
ペガサスクラブのアメリカ視察セミナーにご招待いただき、
直接、薫陶を受けた。
1988年、商業界40周年記念事業として、
渥美俊一著『商業経営の精神と技術』発刊。
私は、先生との10数時間におよぶインタビューをもとに、
初めてゴーストライターとして1冊の単行本を書いた。
この『商業経営の精神と技術』は、
㈱商業界の60数年に及ぶ歴史の中で、
『岡田徹詩集』『ホスピタリティ』と並ぶベストセラー&ロングセラーとなった。
1989年に『食品商業』編集長を命ぜられたときにも、
1996年に㈱商業界取締役編集担当を担うときにも、
2002年専務取締役、2003年代表取締役社長に就任した時にも、
必ず、いつも、相談した。
まるで実の父のように。
そして暖かい助言をいただいた。
もちろん㈱商業界社長を退任するときにも、
あれこれとご指導いただいた。
「フィールド・ワークをおろそかにするな!」
すなわち「現場を大事にせよ」
これが渥美先生の第一の助言。
ストア・コンパリゾンも、渥美先生の主義・主張。
「神は現場にあり」
私の主義・主張でもある。
成田からイサカまでの道中、
何かぽっかりと心に穴があいたような感じだった。
今、また、私はアメリカで店を見ようとしている。
渥美先生からご教授いただいた見方で、学び方で。
亡き父よ
店見るたびに
見るたびに
合掌。
さて、 昨日は成田空港に集合。
「奇跡の第二期生」集合。
社団法人日本セルフ・サービス協会三浦正樹専務理事のご挨拶で、
結団式。
みんな期待に胸を膨らませつつ、出発。
コーネル大学RMPジャパン事務局の太田美和子さんが、
優しく手を振って、お見送り。
23ゲートから15時05分発。
やや古いタイプのジャンボ・ジェット。
私、自分がのる国際便は、
必ず写真をとるようにしている。
夏休みに入る時期、
ゲートは混雑、満席。
約12時間でアメリカ・デトロイト。
A40ゲートのあたりの名物の噴水。
そして乗り換えのための1時間の休憩。
荒井伸也先生と私はスターバックス。
みんな嬉しそう。
さらにローカル線で1時間半、
シラキューズに到着。
地方都市の地方空港。
なぜか空からは、映画『十戒』のごとく、
地上に光が射していた。
すぐに大型リムジンバスに乗り込む。
30人くらいの車中は、ひとり一席。
みんな疲れも見せず、楽しそう。
卒業旅行だからです。
シラキューズのダウンタウンを超えて。
空はますます『十戒』風。
途中、ローカルスーパーマーケットのトップスに寄って、
夕食と酒、水など買いこんで、
コーネル大学キャンパスへ。
そのスタットラー・ホテル。
コーネル大学が経営し、ホテルスクールの実習場となっている。
このホテルに3泊。
成田集合21日正午から22時間後、
やっと目的の地に到着。
すぐに部屋に落ち着いて、
荷解き。
ベッドにはコーネル大学の紋章。
始まります。
コーネル大学RMPジャパン第二期最終講義。
それにつけても、
渥美俊一先生のご冥福、
心よりお祈りしたい。
ふたたび、
深く、
静かに、
合掌。
<結城義晴>