「日本の若者にハングリーさがなくなった」
よく言われること。
だからといって、わざわざ、
ハングリーさを与えることも難しい。
「ハングリー」を辞書で引くと、
「空腹なこと。飢えているさま。精神的な場合についてもいう」とある。
そして例が挙げられている。
「ボクシングは―なスポーツとされた」
「―精神」
しかし、昨日のプロボクシング井岡一翔をみていると、
ハングリーさを超える何ものかを感じずにはいられない。
プロボクシングには認定団体が4つある。
そのうちの世界ボクシング評議会をWBCと称するが、
井岡は、このWBCのミニマム級タイトルマッチで、
プロ歴7戦目にして、世界タイトルに初挑戦し、
5回1分07秒、テクニカルノックアウト勝ちした。
ボクシングは大相撲よりもむしろ、
ハングリーさが要求されるスポーツのように見える。
そのハングリー・スポーツに現在、
日本ジムに所属する世界チャンピオンが7人。
一般に、現在の日本人にはハングリーさが欠けるといわれ、
ボクシングにはハングリーさが必須と考えられるのに、
7人もの世界チャンピオンが日本にいる。
不思議な現象とも考えられるが、
ここには二つの視点があると思う。
第1に、全体のトレンドでものを考えてはいけないということ。
全体では、ハングリーさがなくなった。
しかし、個別にみると、まだまだ、
ハングリーな人物がいて、
彼らがこういった部門で活躍する。
第2は、フィジカルとメンタル、両面のハングリーがあって、
もしかしたら日本にはメンタル・ハングリーの条件は、
失われてはいないのかもしれないということ。
首相が「最小不幸社会」を目指すというくらいだから、
精神的ハングリーの条件、
すなわち「不幸」は存在しているのかもしれない。
そして第3に、ハングリーを超える「何ものか」の存在。
井岡一翔選手の伯父は、
元世界チャンピオンの井岡弘樹。
現在、井岡ボクシングジム会長で一翔の育ての親。
ボクシングはプロ級になると、
「100%才能」によって決まるといわれる。
井岡にはそれがある。
ハングリーを超えるタレント。
もちろん精神的には、
ハングリーでなければいけないだろう。
そんなことを考えていくと、
日本の将来も、
まんざらでもないと思えてくる。
ハングリーやフル、
不幸や幸福、
こういった反対の概念を考察すると、
訳がわからなくなるようだが、
もっと考えると、見えてくる。
一部の人間が、
精神的にハングリーであり続け、
全体の幸福をもたらす。
それが国家なのか。
それが会社なのか。
ウォルマート創業者のサム・ウォルトンが言い残している。
「平凡な人たちによって、平凡な仕事をして、
しかし非凡な成果を上げる」
ただし、サム・ウォルトン自身は、
どうみても、非凡な経営者だった。
ピーター・ドラッカー教授も書いている。
「リーダーシップとは神秘的なものでなく、
平凡で退屈なものであり、
その本質は行動にある」
サムはその行動において、卓越していた。
個人が世界チャンピオンになったり、
歴史に残る論理や文章、音楽や絵画を創造したり、
そんなことを成し遂げるには、
永遠にハングリーさが要求されるのだろう。
しかし、それをいつもいつも、
実務の世界に持ち込む必要はない。
ドラッカー教授は続ける。
「優れたリーダーシップにはカリスマ性は無用であり、
生まれながらのリーダー的資質というものも存在しない」
井岡一翔のボクシングに感じて、
そんなことを考えた。
三連休の中日。
明けたら、バレンタインデー。
良い週末を。