横浜を出て、三日目。
1030キロを走った。
神奈川県から東京都、
栃木県、福島県、岩手県を移動。
東北自動車道を北上し、
郡山市から仙台市、
そして石巻市から盛岡市。
さらに奥州市から大船渡市へ。
お会いする人、
話しする人、
涙涙の交流。
商売の素晴らしさ、
それに打ち込むことの尊さ。
大地震と大津波に見舞われたからこそ、
素晴らしさ、尊さに出会った。
日経新聞では、セブン&アイ・ホールディングスやイオンで、
断裂していた東北の物流体制が、
震災前のレベルまで回復したと報告する。
しかし、被災した人々、
被災した店舗は、
まだまだ悲惨なままだ。
震災時の5つの段階。
①救助の段階
②救済の段階
③復旧の段階
④復興の段階
⑤振興の段階
セブンとイオンのロジスティクスは、
第3の復旧段階が進んだのだろうが、
被災地の人々は、まだまだ救済の段階。
実際にこの地を訪れると、
それが良くわかる。
一昨日は仙台市内のホテルに泊まった。
電気はきているが、ガスがまだ復旧しておらず、
暖房もお湯もない。
だから夜中に、毛布をかぶって、
パソコンに向かった。
昨日の朝は、仙台市内の三井物産㈱を訪問。
コーネル大学RMPジャパン第二期生の花牟礼真一さんと情報交換。
花牟礼さんは食料・リテール本部食品流通部東北営業部長。
仙台や石巻などの情報を詳細に教えてもらった。
しかし仙台で被災した花牟礼さんも、
1週間は「自分たちができること」によって、
救援に動いたという。
メーカーや卸売業のように拠点や物流機能を、
自ら持つわけではない。
それでも三井物産には仙台市から、
様々な要請や協力がくる。
それに対して、商社にはネットワークがある。
花牟礼さんは「ネットワークの使命感」と言った。
その使命感で、援助に協力し、
自らも避難所を訪れ、物資を提供した。
写真は東松島市矢本学校給食センターに、
自衛隊と協力して支援物資を運び込んでいるところ。
人々がみな、自分の「できること」をやって、
被災者を支援した。
花牟礼さんは言う。
「我々が復旧することが、
被災者を支援することにつながります」
そして仙台で被災したものとしてつくづくと述懐する。
「食は最も重要なライフラインでした」
市内のダイエー仙台店は、
三井物産東北営業所の窓から見えるところにある。
いち早く復旧し、営業を再開した。
ダイエーへの顧客の行列は、
4人の列で2ブロック、500mも続いたという。
ダイエーも頑張っている。
私はうれしくなった。
その後、鈴木國朗さんとともに、
仙台から南に向かう高速道路を走った。
海を左手に見て、高速を走る。
一段と高くなった高速道路が、
堤防の役を果たして、津波を堰止めた。
しかし海岸線から高速道路までの1.5キロくらいのスペースは、
荒涼たる光景。
海の臭いと泥の臭いが絡まった異様な臭いが、
車のなかにいても鼻をつく。
高速道路は、時折、でこぼこが出ている。
ガードレールも時々、曲がっている。
そして泥が舞い上がる。
海岸線の防風林と高速道路の間に、
まだ海水が溜まったところが見える。
そして一級河川の名取川。
津波は名取川をのぼり、
この部分だけは高速道路堤防を越えて、
付近を荒らしまわった。
広大な「元」田んぼに流れてきた自動車が、
そのままに点在する。
荒涼とした光景が続くが、
写真真ん中左手に、
打ち上げられた船が見える。
高速道路を仙台空港のところで降りて、
津波に被災されたエリアに入る。
海に向かって一直線にもどる道路。
両サイドには今や何もない。
しばらく走ると、津波に流されてきたものが、
ごろごろころがっている風景が現れる。
海に近づいた集落の入り口。
水たまりのわきに、
流されてきた車が放置されている。
瓦礫のなかに、
骨ばかりになった車。
わずかに残った二階建ての民家と車たち。
タンクローリーも流され、ぐにゃりとつぶされている。
ガードレールもぐにゃぐにゃに曲がって、
道路わきに倒れている。
高速道路のそばにも、藁にくるまった4WD。
海岸線につながれていたボート。
道路に上がったボート。
仙台空港の近くは立ち入り禁止だったが、
付近にはセスナが転がっているそうだ。
津波の影響の少ないエリアもある。
その中にセブン-イレブンの店舗があった。
店は閉鎖されている。
しかしスーパーバイザーのトヨタ・ヴィッツが、
横付けされていた。
海岸から離れたエリアでは、
ホームセンターが営業していた。
そしてパチンコホール・ダイナムの新フォーマット「信頼の森」美田園店。
併設されているファストフード「めん六や」。
元気に営業。
信頼の森は、「煙い・うるさい・わからない」を排除した画期的な店。
被災者や避難所暮らしのパチンコ愛好家が遊びに来ている。
沖慎司ストアマネジャーと握手。
この店は、休暇中の社員が一人、津波にのまれて亡くなった。
隣の店で働いていた奥さんも亡くなった。
高速道路の反対側・名取地区のヨークベニマル名取西店。
このエリアでは最も激しく被災した店舗。
しかし幸いにも津波被害にはあわなかった。
ホームセンターのホーマックが併設されていて、
どちらも元気に営業中。
テントに商品を積んでいる。
ヨークベニマルとホーマックの間をつなぐモール部分の天井は、
崩落している。
天井には大きな穴があいている。
ヨークベニマルの入口ガラス面も壊れていて、
青いビニールシートがかけられている。
鮮魚部門の天井との間も崩落し、
ブルーのシートがガムテープで止められている。
ヨークベニマル名取西店店長の本多博文さん、49歳。
脂の乗り切ったYBマン。
リーダーシップを発揮して、
震災翌日の12日から店を開けた。
その商人魂をたたえて、握手。
停電、断水、連絡も途絶え孤立した店舗。
夜通し店にいて、かたづけし、
12日、被災直後に必要な商品を店頭に持ち出して、
販売した。
お客は何重にもとぐろを巻いたように列をなして、
辛抱強く待ってから、買ってくれた。
店にある商品を順番に店頭に出して、
12日から15日まで4日間売り続けた。
電卓で打って、手から手で商品を渡した。
最初の頃は本部とも連絡が取れず、
近隣の店舗の店長と連絡をとりつつ、
知恵を出し合って、商品がある限り、売り続けた。
4日目には本部の手配で、
関西から冷蔵ケースの修理業者がやってきて、
元に戻してくれた。
そこで、16日、17日の2日を休業として、
従業員の疲れをとって、
18日から店内の一部で、
生鮮食品なども販売し始めた。
ただし1家族15個、20個と制限を加えた。
「どんどん売っても、
買えないお客様がいらっしゃるから、
公平とするために制限する」
これが本多店長の考え方だった。
お客様は驚くほど整然と、買い物してくれた。
業務総括マネジャーの土屋かほるさんは、
店長の判断力と指導力をほめたたえた。
ヨークベニマル名取西店。
まだまだ復旧には時間がかかる。
しかし店長をはじめ、
すべての従業員の士気は高い。
YBマンとしての誇りや使命感とともに、
お客さまからの「ありがとう」の声が、
彼らを支えている。
なぜか、心から感謝したくなる。
「ありがとう」
(つづきます)
<結城義晴>