チャリティセミナー
「ひとつになろう日本!商人支援プロジェクト」
㈱商人舎として、参加、協力しています。
皆さんにも、ご参加を要請します。
私は、今回の「東北関東大津波大震災」に対して、
自然の猛威に恐れおののくとともに、
日本商業のライフラインとしての働きぶりに感動し、
商業にかかわってきた者として誇りにしたいと考えています。
その被災地の商人を支援するプロジェクト。
私たちは会社の名前を「商人舎」としました。
つまり「商人が集まるところ」。
だから、こういったプロジェクトには、
何をおいても参加します。
結城義晴にできること、
㈱商人舎に可能なことなら、
喜んで、進んで、行いたいと思っています。
従って今、進行中の単行本の印税は全額、
被災地の義援金にします。
こんなことは、あまり、
おおげさにいいたくはないのですが、
皆さんに、チャリティへの参加を要請するのですから、
呼びかける人間として、組織として、
どれだけの決意があるかは、
示させていただいた方がいいのではないかと考えるものです。
東北や茨城の企業を訪問したり、
支援したり、激励したりしています。
それが私にできるささやかな役目のひとつでもあると、
思っているからです。
そんな人たちの活躍を語り合い、
そんな人たちとともに歩むことを誓い合う。
そういった集まりになればいいと思います。
まさに商人の集まる舎(とねり)。
謙虚に、控えめに、真摯に、
被災地の商人を支援したいと思います。
ひとつずつ、すこしずつ、いっぽずつ、
被災地の商業の復旧復興を応援したいと思います。
いつも、そして、ずっと、
心をひとつにしていたいと思います。
さて、何度もなんども、
余震がやってきます。
そのたびに携帯電話が、
「キューッ、キューッ」と鳴ります。
そしてそのたびに、
現地の人々の精神的な負担を思います。
マグニチュード9の大きな地震が始まりでした。
次に最高遡上高37.9メートルの津波が押し寄せました。
そして福島第一原発の事故と最悪のレベル7の評価。
さらに、余震はだんだん南下してきて、首都圏に迫る。
次から次へと、新しい難題が降りかかります。
「艱難が忍耐を生み、
忍耐が練達を生む。
練達が希望を生み、
その希望は絶望に終わることはない」
この新約聖書の言葉を、
今回は、信じたいと思いつつ、
「最悪を覚悟して最善を尽くす」
そんな心境になってしまいます。
けれども、へこたれてはいられません。
くじけてはいられません。
元気を出そうよ、
それがあなたの仕事です。
元気を売ろうよ、
それがあなたの役目です。
こう言い続けているのは、
私自身なのですから。
さてさて文体が変わって、ここから、
宮城県石巻市のヨークベニマル、
湊鹿妻店の物語〈後篇〉。
物江信弘店長にご案内いただいて、
石巻蛇田店から、湊鹿妻店に向かった。
物江店長は昭和55年、ヨークベニマル入社の30年選手。
「YBマン」と称するが、その代表のような人。
話をしていても、
表現力の的確さ、豊かさに、驚かされる。
ベニマルにはこんな人材が、
うようよ、いる。
見えてきた、ヨークベニマル湊鹿妻店。
石巻の一番端の伊原津2丁目。
ワンフロアで屋上が駐車場。
左に屋上に向かうスロープが見える。
店舗左サイドのマクドナルドの前に、
流れ着いた人家の屋根。
手前側500メートルほどのところに海が広がる。
その海から津波がやってきて、車や瓦礫を運んだ。
ヨークベニマルのマークの前に、
トラックやセダンが打ち寄せられている。
店が津波を堰止めたかのように、
ありとあらゆるものが瓦礫となって積み重なっている。
人家がそのまま流されてきて、
横倒しになって、店舗入り口のところをふさいでいる。
駐車場の横に人家があって、
その白い壁に浸水時のラインが残っている。
1階部分は完全に水没した。
ヨークベニマルの隣には、ホーマック。
こちらも同様に1階部分が壊滅した。
今や必要なくなった「店舗入口」のサイン。
店舗のサイドも水流で突き破られている。
ホーマックの裏側は完全崩壊。
ヨークベニマルの裏側、プラットフォームのところ。
プラットフォームの横のバックヤード。
手前に泥をかぶって壊れたパソコン。
ヨークベニマルの裏手にある団地。
2階以上は無事だった。
この団地も11日には水没していて、
ベニマルから流れてきた商品を、
住民が掬い上げて、
それを食べたり飲んだりして、凌いだという。
「あとで、団地のお客さんから感謝されました」
物江店長は笑う。
あたり一面、水に囲まれていたのだ。
正面に回って、湊鹿妻店の全容。
この屋上駐車場に2日間、
物江店長たち500人は籠城した。
現在の店舗の中に入ってみる。
日差しが眩しくて、
中に入ると真っ黒にしか見えない。
それでも目が慣れてくると、
すこしずつ、かつての店内が見えてくる。
入口を入ったすぐのところ。
この天井近くまで水が来た。
店内に流されてきた軽自動車。
店舗右手のベーカリー部門。
天井もはがれている。
ベーカリーの奥の青果部門。
「Fresh Produce」のサインが見える。
いちばん奥に「Sea Food」のマーク。
正面は「Daily Market」。
店舗の奥には瓦礫が、
押し付けられるように詰まっている。
冷蔵ケースが横倒しになって、
転がっている。
フロントのATMは七十七銀行。
店の中央の柱はしっかり残った。
この柱が屋上を支えた。
残された黒い線が津波の高さを示す。
店舗の真ん中あたり。
瓦礫と呼ぶしかない物が集まっている。
銘品コーナーからレジのあたりを臨む。
左手にレジの番号が「1」「3」と見える。
レジ前の柱には「花粉対策」の文字。
店舗の外に出てくると、眩しい。
2011年3月11日、午後2時46分。
最大震度マグニチュード9の大地震。
物江店長は店内にいた。
5分後に第一波の津波が来た。
これは50センチほど。
さらに20分後、第二波の津波。
これがすごかった。
あとで市場の漁師に聞いたら、
地震直後に「海の底が見えた」という。
海底に亀裂が入り、
水位が下がって海底の地肌が見えた。
その大きな亀裂に海水が吸い込まれ、
その返し波が第二波となって、
猛烈な勢いで押し寄せてきた。
ただし第二波以後は、
ドーンとくることはなく、
じわり、じわり、グーッといった感じで、
次々に波が来て、
やがて店舗1階の天井近くまで、
水に埋まった。
だから店舗は壊されなかった。
しかし濁流のような引き波が、
すべてのものをさらっていった。
このとき、店舗屋上には、
車が100台くらい避難してきていた。
もちろん勤務中の従業員は全員、屋上に上がって、無事。
徒歩で屋上に避難する周辺住民もいた。
休みの人、遅番出勤の人、
4人の従業員が帰らぬ人となった。
車に乗っていてそのまま流された従業員もいた。
屋上から見ていると、
返し波の濁流に車ごと流されて、
車から助けを求める人。
家が流されて、
屋根のうえから助けを求める人。
物江店長たちは必死だった。
屋上にトラックで逃げてきた人が、
ロープをもっていた。
そのロープを投げて、
みんなで力を合わせて引きずり上げた。
ロープが届かない人もいた。
流れていくのを眺めていた。
物江店長は、暗くなる前に、
売場に懐中電灯があったと気がついて、
それを取りに降りて行った。
するとまた津波が押し寄せてきた。
水が足もとまで迫ってきて、
スロープを走って屋上に上がった。
そのスロープにはいま、
車がひっくり返っている。
広い広い屋上。
この屋上が人々の命を救った。
津波はじわり、じわりと水位を上げていった。
そこで屋上駐車場の機械室の上の屋根に、
まず子供たちを上げることにした。
たまたま梯子を積んでいる車があった。
「子供たちを上に上げろ!」
「妊婦さんはいないか?!」
不思議なことに、みんなで自然に、
力を合わせて、梯子を登らせた。
故渥美俊一先生は「屋上駐車場」を否定したが、
尊敬する渥美先生の説でも、
この時ばかりは、私は思った。
屋上駐車場の有難みを。
それから、津波が引くまで、
500人はこの屋上で助け合った。
夜は、車の人はエンジンをかけて車内で寝た。
それ以外の人たちは屋上にある社員食堂に入って寝た。
それでも人があふれていたので、
機械室のドアを壊して、
そこを開放して寝てもらった。
車にラジオがあった。
だから震災と津波の全体の情報は得られたが、
石巻に関しては一切、報道されなかった。
ヨークベニマル湊鹿妻店の屋上は、
まさに孤立無援だった。
もちろん裏の団地の人々、
隣のホーマックの人々、
それぞれに孤立無援の状態だった。
物江店長は、みんなに言った。
「1日や2日では駄目かもしれないけれど、
1週間くらい経ったら助けてもらえるから」
翌日は少しずつ津波が引いていった。
まだ水に取り囲まれているものの、
水位は低くなった。
「泥の海」のような店舗周辺一帯。
いったん家に戻ってくるという人もいた。
売場から水や食料を運び上げてきて、
人数と日数を計算して、少しずつ配った。
被災した11日金曜日は、
チラシの立ち上げの日だった。
バックヤードや冷蔵庫はパンパンだった。
従業員もいちばん多い日だった。
だから多くの人が助かった。
「今日はこれだけだよ。
これしかないから」
文句を言う者はいなかった。
それにお腹は空かなかった。
なぜか喉も乾かなかった。
水をちょっと、パンをちょっと。
それだけで生きていた。
それでも女性のためにトイレが必要だった。
食堂のロッカーをみんなで出してきて、
屋上の隅に囲いをつくった。
その12日の夕方、
上空をヘリコプターが飛んだ。
みんなで手を振り、声を上げた。
それまで一切、報道もされず、
湊鹿妻店の500人のことは知る人もいなかった。
けれど、すぐに助けが来るわけではなかった。
「救助がくるまで避難した人たちを安全に守る」
それがYBマンの使命だと思っていた。
13日も助けは来なかった。
14日の朝、小林稔店長の石巻蛇田店から、
田んぼのようなどろどろ道をぬって、
救援物資が届けられた。
その日、給水車が来た。
市からの救援物資が届いたのは、
4日目の15日だった。
この間、湊鹿妻店は、
人々を守りきったのだった。
4月6日に私たちが訪れた時、
まだ避難者の一部の人は、
ここにいた。
物江店長は親しげに状況を聞いた。
現在は簡易トイレが設置されている。
手洗いのルールも決められている。
洗濯物も集められる。
食堂には簡易ベッドがしつらえられ、
近所の避難所よりもすこしは快適だと言う。
13家族20人の人が、まだここで避難している。
食堂の調理場で食事をつくる。
暮らしのルールも決めて、集団生活が続けられている。
救援物資も、ありがたいことに、
自宅で暮らす人よりは、ずっと潤沢だ。
みんなが口をそろえて言う。
「ヨークベニマルのおかげ。
物江店長のおかげです」
機械室の横の壁に物江さんのメッセージ。
物江さんは行方不明になった従業員を探して、
泥の中を歩き回った。
その時に首からぶら下げた手書きのボード。
この駐車場が、500人の人々を救った。
そこに、物江信弘店長に立ってもらった。
「とりあえず食べるものはありました。
だからみんなで力を合わせて、
規則正しく生活しました」
物江さんはそう語る。
「自分にとって今、できることは何か。
お客さんのために今、できることは何か。
それだけを考えていました」
「ベニマルさんのおかげで助かった」
地域の人々の声。
もう、それだけで、十分だと思う。
それが物江信弘に贈られる最高の勲章である。 (明日につづきます)
<結城義晴>