横浜では、早くも、
桜の花が散り始めた。
いつも通る菊名池公園。
池の端に溜まった桜の花びら。
水連の葉にも桜の花びらがからみつく。
もうすぐ桜は終わり、
新緑の季節。
「大川に吹きあげられし桜かな」 〈小林一茶〉
毎年、思い出すが、私はこの句が大好きだ。
いつも歩く新田間川沿いの道。
桜と鳩。
これでは句に、ならない。
一句、詠めない。
新田間川でも葉桜になりつつある。
これから東北・北関東の被災地も、
桜の季節か。
もしかしたら、
桜よりも新緑の方が、
被災地の人たちに、
勇気と希望をもたらすかもしれない。
朝日新聞のコラム『経済気象台』に、
コラムニスト四知氏が、「民度と『官度』」。
「未曽有の東日本大震災にもかかわらず、
数多(あまた)の市民が惨事に耐えながら、
未来に向けて粛々と対処する姿は、
多くの国々に感動すら与えている」
もちろんこの中には小売商業・サービス業が含まれる。
「これは、わが国の民度の高さを改めて世界に示すとともに、
復興に向けた大いなる希望のあかしともいえるものである」
それに対して、政府、官僚、そして順官僚体質の電気事業者の、
「『官度』の低劣さは憂慮すべきもの」と嘆く。
そしてJ・F・ケネディの言葉、
「つながっていれば、
できないことはほとんどない。
バラバラなら、
できることはほとんどない」
「復興に際しての民力の強靱さには疑問の余地もない」
これが四知氏の結びだが、
「民力」に関しても、つながらねば、
できることはほとんどない。
さて、石巻のヨークベニマルの物語は続く。
3月11日に被災した湊鹿妻店。
物江信弘店長をはじめ湊鹿妻店の人たち、
それから周辺の住民、
総勢500人は何とか生き延びた。
石巻市内で唯一、無事だった石巻蛇田店から、
14日に救援物資が運ばれてきて、一息ついた。
その後物江店長と従業員の人たちは、
蛇田店に行った。
蛇田店は、石巻市の山側に立地する。
新しい商業集積の中にあって、
イトーヨーカドー、ニトリなどとショッピングセンターを形成している。
石巻にヨークベニマルは、4店舗を出している。
そのうちの2店舗が完全閉鎖。
物江店長の湊鹿妻店、そして石巻街道が陥没した中浦店。
15日に、二人の店長が蛇田店にやってきた。
蛇田店の小林稔店長が待っていた。
三人の合流。
それは三店の合流を意味した。
「無事だった!
良かった!」
三人は抱き合って喜んだ。
それからずっと、
物江店長も蛇田店で働いている。
三人の店長はそれぞれに、
被災の状況が違っていた。
そして三人はそれぞれ孤立していた。
誰の指示も得られなかった。
だからそれぞれ自分で判断した。
「自分にとって今、できることは何か。
お客様のために今、できることは何か」
それだけを考えていた。
周りに部下はいても、店長として孤独だった。
だからこそ仲間との合流は、
ひとしおうれしかった。
11日、蛇田店は、大きな揺れで、
店内ゴンドラがひっくり返ったり、
一部の天井が落ちたり、
スプリンクラーが作動したり、
やはり大変なことになった。
そのうえ、停電、断水、余震も続いた。
その日は店内を片付け、店を守った。
翌朝12日、もう、6時から顧客が、
店の前に集まってきていた。
「集まり方は半端でなかった」
小林店長は述懐する。
店内から必須の商品を駐車場に持ち出して、
暗くなるまで売った。
必死で仕事した。
「お一人様、5個まで」
400円、500円の商品も、
一律100円で売った。
それでも15日までの5日間で、
1000万円になった。
まさに私の言う「配給所」。
お客からは「ありがとう、ありがとう」
逆に元気づけられた。
もめ事もほとんどなかった。
これまでは、
「買ってあげる」
「買っていただく」
この時は違った。
「ありがとう」
小林店長は言う。
「別に、当たり前のことをやっていたのに」
そのうえ、申しわけないほどの行列で、
長いこと待っていただいて、
お一人、4個、5個の買い物。
それも申し訳ないと思った。
なんとか早く、店内でも販売したいと考えた。
しかし12日の夜は、
治安が悪かった。
真っ暗な中、若い男たちが、
ハンマーを持って、店や事務所を荒らしていた。
コンビニ、やまやなど酒販店、貴金属店、洋服店。
コンビニは暗くなるとほとんど店を閉めて、
バリケードを築いていた。
13日は、朝6時から駐車場での販売を始めた。
電話や携帯も通じないし、本部との連絡も取れない。
当然、商品は入ってこない。
だから店内の売場やバックヤードから、
商品を運び出しては並べて、売った。
14日の午前3時、
初めて本部と連絡が取れた。
小林さんの息子さんは福島県のいわきに住んでいるが、
深夜にその息子さんとの連絡が取れて、
直後に、本部からの電話もとった。
息子さんは「無事」で、
本部とも連絡がついた。
二重の安堵だったに違いない。
それまでは「何が起こっているかがわからなかった」
だから「自分たちでできることだけをやろう」
この「できることだけをやる」ことは、
震災の時の第一の心構えである。
14日は、本部の情報で、
中浦店と鹿妻店が被災していることがわかって、
鹿妻店まで10キロの泥だらけの道を、
店にあった商品を持って届けた。
近隣の中浦店は売場がまったく使えないので、
蛇田店にやってきて、一緒に販売した。
そして15日に三人の店長が合流。
それでも15日と16日は、朝8時から始めて、
昼には売り切れて、終わった。
そして売れるものは、何もなくなった。
鹿妻店の物江店長が店頭販売していると、
長靴をはいてリュックサックを背負った泥だらけの人が、
近づいてきた。
鹿妻店の常連のお客だった。
10キロも歩いて、
蛇田店に買物に来てくれたのだった。
三店合流後の復旧は早かった。
やっと本部から商品が届くようになった。
どの店も発注の4割も商品が入らない状態だった。
蛇田店には優先的に商品供給が行われた。
この間、中浦店、鹿妻店の店長たちは、
行方不明の従業員の安否確認に奔走した。
その時に物江店長が首から下げたボード。
20日には、店内営業を始めた。
その日は朝5時からお客が並んだ。
「並ばないでください。
全員、買物できるようにしますから」
そう言って歩いた。
しかし、あまりの客数にレジがスムーズに流れない。
家族を亡くした従業員が3分の1くらい。
半分の従業員は仕事に出てくることができない。
郡山からレジを運んでもらって、売った。
午後3時までに来店した顧客には、必ず売ると約束した。
被災地から、次々にお客がやってきた。
営業本部長が20人くらいの応援部隊を、
山形・茨城から派遣してくれた。
それでほとんど並ばせない態勢をつくった。
それでも、出勤した者はみな、
仕事に打ち込んだ。
中浦店のベーカリー・マネジャーは旦那さんを失った。
しかし「毎日、仕事している方がいい」と言って、
元気に働いた。
そんなふうにして、なんとか4月1日までやってきた。
「4月に入ったら、日常に戻そう」
それが合言葉だった。
現在の店は、もちろん平常時と同じではない。
しかし、売場は輝いている。
何しろ、三人の店長が力を合わせ、
三店の従業員が協力し合っているのだから。
私たちが訪れた4月6日も、
夕方の5時には閉店した。
まだまだ日常には戻らない。
しかし短時間に集中的に、
商品を供給する体制が出来上がった。
5時までの営業で、以前の2倍の金額を売る。
時間当たりにすると3倍売れている。
ヨークベニマルには、
「野越え山越え」の精神がある。
創業の大高善雄さんの時代、
夫婦で引き売りをした。
街から街へ、村から村へ、
お客を求めて売り歩く。
25軒目でやっと買ってもらった。
この時の精神を受け継いで、
「一人のお客様を大切にしよう」という考え方。
今回、小林店長が最後に、
この「野越え山超え」のことを口にした。
「一人のお客様の後ろには25人のお客様がいる」。
この精神は、大震災の非常時にも、
YBマンの心の中に宿っていた。
被災し疲れ切ったお客様。
余震で不安がぬぐえないお客様。
そんなストレスを背負ったお客様たちだからこそ、
こんな時にも並ばせない。
それが小林店長の石巻蛇田店全体にあふれている。
そしてこの精神は、
鹿妻店にも宿っていた。
「野越え山越え」精神があるからこそ、
一人でも多くのお客様を守ろうとした物江店長。
物江さんと小林さんは会津若松の生まれ。
同じ高校の1年違いで、二人とも東京の大学に進学し、
同じように東北のヨークベニマルに就職した。
そして30年。
二人は立派なYBマン、
スーパーマーケット店長になって、
互いに協力し合う仲間。
私も仲間に入れてもらって、
お二人と固い握手。
ヨークベニマルという会社の良さ、強さ。
業界でも盛んに論評される。
しかし私は、私自身の意見として、はっきり言っておこう。
会社は、もっともっと、もっと努力しなければいけない。
物江信弘、小林稔、そしてすべての店長たちに、
ヨークベニマルは支えられている。
まだまだ、ひたむきで、真摯な、個人に頼っている。
それがこの大きな津波と大きな地震が、
会社に対して示したことだ。
創業の精神と個人の人間力に支えられている。
それがヨークベニマルというチェーンストアが、
東北関東大震災から教えられたことだった。
(つづきます)
<結城義晴>