「松の内」。
松の内まで、
正月の「松飾り・門松」などをつけておく。
一般に関東は1月7日、
関西をはじめ他の地域では15日。
その松の内、私の住む横浜では、明日。
明日は、七草粥の日でもある。
こうして少しずつ、
「松が明ける」。
すなわち「松の内が終わる」。
それでも、1月いっぱいは、
新年賀詞交換会などで、
「おめでとうございます」とあいさつする。
1月末までが、「正月」だから、
それもよい。
一方、「小正月(こしょうがつ)」という表現もあって、
こちらは、1月15日。
江戸時代の初期まで、
小正月が「松の内」とされた。
小正月があれば当然ながら、
「大正月(おおしょうがつ)」というのもあって、
これは「元旦」のこと。
1年をいろいろに区切るのが、
日本人に限らず人間の「生活の知恵」だが、
正月の1月は特に区切りが多い。
「一年の計は元旦にあり」
そのココロは、
一年間の計画は元旦に立てるべきである。
これに対して、
「一日の計は朝にあり」もある。
同じく、ココロは、
一日に計画は朝、立てたり、確かめたりするべきだ。
今年の商人舎標語、
「朝に希望・昼に努力・夕に感謝」も、
「朝」から始まる。
私の場合は、
夜と朝が繋がっていたりすることがあるが、
それでも「朝」の区切りは大事。
関西スーパーが考え出した概念に、
「開店時100%の品ぞろえ」があるが、
これも「一日の計は朝にあり」と同じ趣旨。
「松の内」の間に、
このことは確認しておきたい。
さて、糸井重里さんの『ほぼ日』。
「ほぼ日刊イトイ新聞」。
その巻頭言は「今日のダーリン」。
私がひそかに目指しているサイト。
今朝の巻頭言は考えさせられる。
「『たし算』的な仕事のやり方について」、
昨日から書いている。
「大量に複製をつくっていくという方法を、
否定しているわけではないんです。
たくさんの人に、たくさんつくって、たくさん運んで、
たくさん利用してもらうというやり方は、
いろんなものやサービスを手に入りやすいものにして、
多くの人が利用できるようにしてくれました」
1760年代からイギリスで産業革命が起こった。
だから糸井さんといえども、
これを否定できるはずはない。
糸井さんは、これを、
「『かけ算』的な方法が発達してきたおかげ」という。
それ以前の方法を、
「『たし算』的なやり方」と言いつつ。
この「かけ算」の方法論によって生まれた商品こそ、
「コモディティ・グッズ」である。
糸井さんは結論づける。
「ただね、『かけ算』がふつうになってしまうと、
高くてもいいから大事に使いたいもの、だとか、
一人の人のために、じっくりつくりたいとか、
他の誰のものともちがうものがほしい、とか、
ひとつずつの『たし算』のような仕事のしかたが、
なつかしくなるというか、
そういうものがほしくなってきます」
これこそ「ノンコモディティ」の概念だ。
そのあとの観察が糸井重里らしい。
「おそらく、これ、買う、使う側だけじゃなくて、
売る、つくる側にも
そういう気持ちがあると思います」
コモディティ偏重から、
ノンコモディティとの併用、
そして両者のプロダクト・ミックスこそ、
現代商業の利益の源泉である。
それを糸井さんは指摘している。
さらにノンコモディティの中身を、こう表現する。
「芸術とはちがうのでしょうが、
大量生産品ではない」
ではなんだ。
「『作品』という考えに近いのだと思っています」
ノンコモディティ・グッズは
「作品」である。
「芸術品」でなくともよい。
さらに産業革命以前の「産品」とも違う。
ノンコモディティ・グッズは、
ただの「グッズ」でもない。
きわめて感覚的な表現だが、
それが「ノンコモディティの本質」をとらえている。
糸井重里の関心は、
ここにとどまらない。
「というようなことを下地にしてですね、
東北で、新しいぜいたく『たし算』はできるかなぁ」
商業・サービス業の現代化は、
足し算による「作品」のようなノンコモディティと、
かけ算の「量産品」のコモディティによって、
人々の暮らしを豊かにしつつ、
確かにする仕事なのだと思う。
「セルコ・レポート」は、
全国セルコグループ運営本部発行。
私はこの機関誌に17年間、
隔月でコラムを書いてきた。
昨年12月号でその連載が終了したが、
最後のタイトルは「Last Message」。
以下の文章は私が食品商業編集長を止めた時に、
最後の巻頭言として書いたもの。
それを『メッセージ』(商業界刊)に転載した。
さらに一部書き直して、
セルコ・レポートに使った。
「Last Message」
最後の決め手は、
どんなときにも
人間力となる。
わたしは
いつも、
その人間力を信じたい。
かつて
すべての商業は
「足し算の経営」だった。
百貨店という経営体はその中で最大の存在ではあったが、
今でもこの足し算の領域にあって、
だから「そごう」は破綻した。
アメリカで起こったチェーンストアは
二〇世紀の小売産業に
革命的な「掛け算の経営」をもたらした。
しかしほとんどの企業はそれに徹することができず、
ご都合主義で足し算と掛け算を混ぜ合わせ、
その弥縫策としての引き算と割り算に終始した。
一方、インターネットビジネスは
息もつかせぬ「累乗の経営」で、
足し算と掛け算の分野を呑み込むかに見える。
けれど結局は、ほんのひと握りの英雄を残して、
二乗、三乗、四乗のスピードで
世界を塗り変えつつ、残骸となってゆく。
ここには累乗分の多大なリスクが潜む。
彼らにとっても最後の決め手は
やはり人間力であるからだ。
孟子の性善説も筍子の性悪説も超越した次元での
組織的な人間たちの総力が、
顧客満足と市場競争力を生み出す最後の砦となる。
そのための生き残りをかけて、
数え切れないほどの葛藤や闘争が繰り広げられるだろう。
幾多の誤解や錯覚が生じ、あまたの誹謗や中傷が飛び交うだろう。
それでもわたしは、人間力を信じたい。
足し算や掛け算のフィジカルな世界においても、
累乗のバーチャルな領域においても。
わたしは
永遠に
人間力を信じたい。
糸井重里の「たし算とかけ算」。
ノンコモディティとコモディティ。
結城義晴の「足し算と掛け算と累乗」。
支店経営とチェーンストアと、
そしてネット・ビジネス。
これらも商業・サービス業の現代化を、
懸命に解き明かそうとするときの糸口になる。
<結城義晴>