訃報、再び。
北野祐次、逝く。
享年90。
2月12日午前3時46分。
肺炎のため逝去。
関西スーパーマーケット名誉会長、
オール日本スーパーマーケット協会名誉会長。
それよりなにより、
日本の食品スーパーマーケット産業に、
これほど重大な影響を与えた人はいない。
北野さんが創り出した「システム」が、
日本のスーパーマーケット全体に普及し、
それをここまで進化させた。
いや、「システム」の概念を、
悪い意味での職人の世界であったスーパーマーケット業界に、
はじめて定着させたのが北野さんだった。
鮮魚部門を筆頭とする日本の鮮度管理システムは、
間違いなく世界最高峰である。
アメリカやヨーロッパのそれよりも、
はるかに完成度が高く、
世界一厳しい目を持つ日本の消費者に、
満足を与える仕組みは、
北野祐次によって生み出された。
それはまったく、
信じられないほどのイノベーションだった。
私は1977年4月1日に、
㈱商業界に入社し、
『販売革新』編集部に配属された。
そしてすぐに関西スーパーに取材に出かけ、
当時の北野祐次社長に面会した。
とにかく何でも公開して、
包み隠さず教えてくれた。
翌1978年の初めに、私は、
「関西スーパー1週間研修」を体験した。
伝説の店「関西スーパー広田店」がオープンした直後で、
この店は日本中のスーパーマーケットのモデルだった。
私はそのモデル店で、
1日ずつ、青果・鮮魚・精肉・グロサリーの4部門を学び、
さらに店長実務の研修を受け、取材をし、
『販売革新』誌に、連載特集を書いた。
大ヒットした。
それがもととなって別冊『関西スーパースタディ』が生まれた。
これは日本のスーパーマーケットの教科書になった。
そしてこれが、私の原体験となった。
結城義晴に、
スーパーマーケット応援団となる決意をさせた。
北野さんは大正13年の生まれ。
20歳で徴兵され、幹部候補生となる。
しかし終戦。
戦後、すぐに国鉄に入る。
北野さんの仕事の体験はここから始まる。
本当によく働いた。
その後、結婚し、国鉄を辞め、
鰹節の卸売の商いに転職。
その取引先がスーパーマーケットだった。
北野さんは卸売業の掛け売りの苦しさを味わっていた。
その売掛金を回収に行った先で、
スーパーマーケットを目撃した。
福岡県小倉の丸和フードセンターだった。
スーパーマーケットでは、
顧客がわざわざ現金で買い物に来てくれる。
セルフサービス方式で自分で買って帰ってくれる。
衝撃を受けた北野さんは、
自分もスーパーマーケットを起業する。
1959年(昭和34年)12月のことだった。
最初は苦労の連続だった。
しかし活路を求めて、1967年(昭和42年)、
初めてハワイに赴く。
「タイムズ」という店の店長に言われた。
「食べるものだけ売るのが、
スーパーマーケットだよ」
これが、北野さんの原点となった。
「今晩のおかず屋」というわかりやすいコンセプトも、
ここから導き出された。
コンセプトが固まれば、
あとはシステムづくりに邁進するだけ。
それが「関西スーパー・システム」となった。
私は2009年の夏、
北野さんにインタビューした。
北野さんは、
スーパーマーケットへの「愛」を、
語ってくれた。
スーパーマーケットを語れば語るほど、
北野さんは元気になっていった。
「最後は『人』です。
その人の『和』です」
北野さんはそう言って、
大きな額の書を、指さした。
私たちは並んで写真を撮った。
その後、2010年2月19日、
関西スーパー創業50周年感謝の集いが、
開催された。
私は記念講演をした。
「スーパーマーケットの100年を考える」
記念式典の後の懇親会の冒頭で、
北野さんはご挨拶をされた。
それが最後の公のスピーチとなった。
今は、静かにご冥福を祈りたい。
「日本のスーパーマーケットは、
大丈夫ですよ。
立派な産業として、
現代化を果たします。
関西スーパーも井上保社長を中心に、
北野さんの遺志を継ぎますよ。
みんなで応援しますよ。
安らかにお眠り下さい」
合掌。
〈結城義晴〉