人間としての商人が、
世の人々のしあわせに
合致する営みに徹し、
そのしあわせが今日のみでなく
明日のしあわせの建設にも
通じるような精進努力に
必死の心掛けを持つのを
商魂という。
〈倉本長治『考える商人』〉
商人は人間だ。
人々のしあわせのために働く。
今日のみでなく明日のしあわせ。
その建設に精進努力する。
この必死の心掛け。
それが商いの魂。
まだ私が20代の後半のころ、
だからもう35年も前のこと。
「横浜会」という勉強会があった。
小売流通業の若手ジャーナリスト、
若手コンサルタント、
若手実務家が集って、
1カ月に1回、
横浜で研究会を開く。
そして、一献傾ける。
私はここで、
小森勝さんに出会った。
参加者は当時、
イトーヨーカ堂RE部の鈴木哲男さん、
西友営業企画部の藍野弘一さん、
『チェーンストアエイジ』の鈴木悟さん、
『ストアーズレポート』の風間晃さんなどなど。
鈴木さんは現在、コンサルタントになって、
「52週マーチャンダイジング」の大家。
藍野さんは、ファミリーマート、ミニストップ、
それから日産自動車などで活躍。
鈴木さんはダイヤモンドフリードマン社常務から、
湖池屋の取締役へ。
風間さんはストアーズ編集局長になって、
2012年の5月に60歳で早世。
その中で小森さんは一貫して、
コンビニエンスストアの専門コンサルタント。
フィールドマーケティングセンター代表取締役。
横浜駅南口にある「味楽」というおでん屋が、
私たちの根城だった。
当時の私は『販売革新』編集記者。
ずいぶん生意気なことを口走っていたと思う。
恥ずかしいかぎりだが、若気の至り。
互いに許し合っていた。
小森さんは最近、会うたびに言っていた。
「結城さんはあのころから、
社長になる! と大言していた」
その後、私は『食品商業』編集部に異動し、
さらに1989年、編集長になった。
私はこのメディアを、
「スーパーマーケットとコンビニの雑誌」と、
明確にポジショニングし、
強力にリードした。
小森さんには、
欠かすことなく毎月のように、
執筆してもらった。
別冊号『コンビニエンスストアのすべて』では、
主力筆者として何本も、
レポートや評論記事を書いてもらった。
1998年8月、季刊『コンビニ』創刊、
さらに2002年8月、『コンビニ』月刊化。
この時も、小森さんの存在抜きには、
月刊化は考えられなかった。
株式会社商業界は、
1948年9月に月刊『商業界』を発刊。
1963年4月、『販売革新』、
1972年8月、『食品商業』、
1975年1月、『飲食店経営』、
そして1976年1月、『ファッション販売』。
つぎつぎに経営専門誌を創刊していった。
小森さんに尽力いただいた『コンビニ』は、
20年ぶりの新メディア創設だった。
その後、2003年、
私は株式会社商業界の社長になった。
さらに株式会社商人舎を興し、
2013年4月の月刊『商人舎』創刊。
私にとって、『コンビニ』以来の大仕事だったが、
この時、小森さんは前立腺癌に侵されていた。
7年間の闘病生活。
今回は雑誌を、
お手伝いしていただくわけにはいかなかった。
しかしこの間、2009年には、
立教大学大学院F&Bマーケティング講座の、
ゲスト講師にお招きした。
私はビジネスデザイン研究科の教授に、
就任していた。
2010年、2012年、3年続けて、
小森さんご自身の母校・立教大学で、
講義をお願いした。
これが小森さんとご一緒した、
最後の仕事になった。
その小森勝さんの告別式。
横浜の京急メモリアル金沢文庫斎場。
しめやかに執り行われた。
お名前は聞き洩らしたが、
サッポロビールの方から声をかけられた。
私のブログを見て、小森さんの訃報を知り、
告別式に駆けつけてくれたという。
心から感謝したい。
出棺の時。
私は棺を持たせてもらった。
小森さんの棺、
重かった。
そして出棺。
しずかに合掌して見送った。
小森さんは、大学を出ると、
セブン-イレブン・ジャパンに就職した。
根っからの商人だった。
今日のみでなく明日のしあわせに、
その建設に精進努力する商人だった。
その後、コンサルタントに転身、
しかし商いの魂を持ち続けていた。
小森さんは最後の闘病の時にも、
家族に「仕事に復帰する」と言い続けた。
いつでも、その仕事は、
小森さんを待っていた。
棺を見送ると私は、
浅香健一さん、鈴木國朗さんと、
蕎麦屋に入った。
壁に、額が掛けられていた。
世の中で一番
楽しく立派なことは
生涯を貫く仕事を
持つことである。
〈福沢諭吉・こころのいましめ〉
決して上手くはない店主の書の言葉が、
妙に胸にしみた。
黙祷して、合掌。
〈結城義晴〉