ジジです。
『ほぼ日』のイトイさん。
「今日のダーリン」にかきました。
「昔は、家の鼠を捕ってくれるからと、
猫は飼われていました。
たしかに、屋根裏まで追いかけて
猫は鼠を捕ってました」
「いまの猫は、鼠を捕ることなど期待されてません。
いや、ご主人は、『捕らないでくれ』とさえ、
思っていることでしょう。
血だらけの小動物などと
関わりたくないですから」
「鼠を捕らない現代の猫は、
なにを取り柄にすればいいのでしょう」
「配達の人にお礼を言って
ハンコを押すとかできないし、
炊事洗濯掃除片づけ、
どれひとつできません。
番犬じゃないし、
番猫ということもありえない」
「猫が鼠を捕るというのは、
たったひとつの、しかも最後の、
役立つ仕事だったのでしょうか」
「うん、そうなんじゃないかな、おそらく。
そして、そして、鼠も捕らない猫の取り柄は、
『その猫であること』なのではないでしょうか」
「『なにかができる』という機能を、
人びとは比べたがることが多いのですが、
しかもその機能の優劣を
競い合って悩んだりしますが、
その前に、『その猫であること』のような、
とてつもなくでかい基礎点が
あるのではないでしょうか」
おうちのうえの空も。
空が空であること。
そうそう。
雲が雲であること。
青が青、白が白であること。
それから。
おうちのベランダも。
花が花であること。
パンジーがパンジーであること。
赤パンジーが赤パンジーであること。
ボクがボクであること。
この花も。
これも。
ふたつならんだ花も。
変わった花も。
あでやかな花も。
猫が猫であること。
自分が自分であること。
そのために、
生きているのです。
〈『ジジの気分』(未刊)より〉