7月も最後の日。
明日から8月。
児童、生徒、学生の頃、
この時期はごろごろして、
時間を無駄に過ごしていた。
その無駄に費やす時間が、
今となってみれば、
貴重だった。
無駄に使う時間をもっていたことが、
なんというか、良かった。
若者よ、
「時間を無駄にするな」
などとは思わないし、
言わない。
無駄に見えた時間こそが、
有意義だった。
ここへきて急に、
激しくなった蝉の声など聴いていると、
そんなことが思い起こされる。
時間の無駄。
時間の効率化。
それらを統合した人間の幸せ。
さて、中国の習近平国家主席と指導部。
周永康氏を汚職容疑で立件する。
朝日新聞は社説で取り上げた。
「『大物』の立件が映す中国の腐敗」。
周氏は引退までのこの5年間、
司法部門の統括最高責任者だった。
そのうえ大躍進する中国石油業界を、
強力な権力基盤としている。
習近平は就任以来、
大々的に腐敗摘発キャンペーン進めてきた。
毎日新聞は巻頭コラム『余禄』で話題にした。
「虎も蝿も一網打尽にする」
これが習指導部の国民への公約。
超大物の周氏が、
「虎狩り」の格好の標的。
『余禄』は案ずる。
「この虎退治が
習主席の独裁的権力の強化をもたらすのか、
はたまた虎同士の新たな争闘を呼び起こすのか」
中国共産党元老だった陳雲の言葉らしいが、
「腐敗に反対せねば国が滅びる、
本当に腐敗に反対すると党が滅びる」。
まことに皮肉な言い回し。
余禄のコラムニストは、結ぶ。
「究極のジレンマに直面する習体制である」。
ここで、ヘーゲルの弁証法。
「テーゼ」はある命題を意味する。
それと矛盾する命題、
もしくはそれを否定する反対の命題を、
「アンチテーゼ」という。
テーゼは「正」、
アンチテーゼは「反」。
そして、正と反を本質的に統合した命題が、
「ジンテーゼ」であり、
これが「合」となる。
「正・反・合」。
テーゼとアンチテーゼを、
総合的に一つのテーゼとして説明できると、
それが「ジンテーゼ」となる。
しかし新しくジンテーゼが生まれた瞬間、
さらに新しいアンチテーゼが生まれ、
そしてそこからまた、
新たなジンテーゼが考え出される。
そしてこの考え方は、
無限に進歩していく。
「弁証法」という。
習近平の「虎蝿一網打尽」は、
ジンテーゼにつながるのか。
そこが問題である。
最近、私は、
愛ある「純粋渥美俊一批判」を語った。
大きな企業は百貨店だけで、
あとは中小零細の商店ばかり。
そんな時代に、
アメリカのチェーンストア産業を学び、
彼の国の半分、3分の1の時間で、
日本にチェーンストア・インダストリーを構築し、
日本国民の生活を飛躍的に向上させる。
「これこそ経済民主主義だ」。
渥美先生はそう叫んだ。
しかしそのためには、
従来の商業理論に、
反論せねばならない。
従って、渥美俊一理論は、
それまでの日本の小売商業に対する、
強烈なアンチテーゼだった。
例えば「販売士」という公的資格がある。
その資格を取るために販売士検定試験があり、
これは日本商工会議所と各地商工会議所が、
現在も実施している。
渥美理論の多くは、
この販売士検定試験の「正解」と、
正反対の内容である。
私も販売士検定の一部の改訂に
参画したことがある。
その時につくづくと思った。
つまり渥美理論は、
テーゼに対するアンチテーゼだった。
しかしその強靭なアンチテーゼの反命題に対して、
かならず、ジンテーゼが模索されねばならない。
私の問題意識は、
ここにある。
私が「商業の現代化」を標榜するのは、
近代以前だった日本の小売商業に、
「近代化」をもたらしたのは、
チェーンストアによる産業化であったし、
これはまさにアンチテーゼの理論であったけれど、
それはさらにジンテーゼへと、
昇華されねばならないと考えるからだ。
故堤清二さんの『変革の透視図』に、
次の表現を見出した時、
私は膝をたたいて、小躍りした。
「流通産業は、まだ大きく
変化する可能性を内蔵した産業である。
そしてその変化は、
『近代化』を内に含んだ『現代化』へと
すすめられなければならない」
まさにこれが、
日本小売流通業のジンテーゼである。
私の「純粋渥美俊一批判」は、
このジンテーゼの探究である。
4年前に亡くなられた渥美先生と、
今はもう直接、語り合うことはできない。
だから今は活字に示されたロジックと議論し合い、
ともにテーゼ、アンチテーゼを統合した、
ジンテーゼを見つけ出したい。
これは、中国の習近平のジレンマよりも、
ずっと可能性の豊かな、
拓かれた弁証法である。
私はそれを確信している。
〈結城義晴〉