昨日から軽井沢。
そして今日は、
浅間山を拝みながらゴルフ。
浅間根のけぶるそばまで畑かな
〈小林一茶〉
今日はくっきりと、
浅間の姿が見えた。
しかし煙は見えない。
真夏の空と真夏の雲。
こうして夏が過ぎてゆく。
その夏の真ん中で、
胸いっぱい、息を吸い込む。
心から、感謝したくなる。
これまで、生きてきたことに、
いま、生きていることに、
これからも、生きていくことに。
毎日新聞巻頭コラム『余禄』
金子みすゞ「花のたましい」を引用した。
散ったお花のたましいは、
み仏さまの花ぞのに、
ひとつ残らずうまれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまが呼ぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
蝶々にあまい蜜をやり、
人にゃ匂いをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの、
御飯になってくれるから。
コラムのテーマは、
相模原市の障害者殺傷事件。
「侵してはならぬ聖なるものを
この世から奪い去られたような
胸苦しさが去らない」
「力の弱い者、虐げられた者が
神仏に慈しまれるという信仰は、
富や力では及ばない魂の救いを
人が求めるからだろう」
金子みすゞの詩には、
その救いがあふれている。
金子みすゞは、
明治36年生まれ、昭和5年没。
26年間の短い一生だった。
しかし大正末期から昭和初期に、
童謡詩人として512編の作品を書いた。
岩波書店「日本童謡集」に掲載され、
教科書にも採用された作品「大漁」
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何萬の
鰮のとむらい
するだろう。
(注)鰮は「いわし」、萬は「まん」
私が好きな詩が「繭と墓」
蚕は繭に
はいります、
きゅうくつそうな
あの繭に。
けれど蚕は
うれしかろ、
蝶々になって
飛べるのよ。
人はお墓へ
はいります、
暗いさみしい
あの墓へ。
そしていい子は
翅が生え、
天使になって
飛べるのよ。
(注)蚕は「かいこ」、繭は「まゆ」、翅は「はね」
コラム『余禄』のまとめ。
「富と力が支配する世界しか
感じられなくなる魂の貧血は
容疑者だけのものか」
「富」はピーター・ドラッカーに言わせれば、
「幸せ」のようなもの。
だからコラムニストが言う「富」は、
「金」であり、「利」だろう。
みすゞはそんなことは考えない。
「ひろいお空」
私はいつか出てみたい、
ひろいひろいお空の下へ。
町でみるのは長い空、
天の川さえ屋根から屋根へ。
いつか一度は出てみたい、
その川下の川下の、
海へ出てゆくところまで、
みんな一目にみえる所(とこ)へ。
最後に「芝草」
名は芝草というけれど、
その名をよんだことはない。
それはほんとにつまらない、
みじかいくせに、そこら中、
みちの上まではみ出して、
力いっぱいりきんでも、
とても抜けない、つよい草。
げんげは紅い花が咲く、
すみれは葉までやさしいよ。
かんざし草はかんざしに、
京びななんかは笛になる。
けれどももしか原っぱが、
そんな草たちばかしなら、
あそびつかれたわたし等は、
どこへ腰かけ、どこへ寝よう。
青い、丈夫な、やわらかな、
たのしいねどこよ、芝草よ。
ほんものの商人は、
みすゞの「芝草」である。
〈結城義晴〉