今日はジジの命日。
一周忌です。
昨年の1月4日午前11時49分。
息を引き取りました。
生まれたのは2005年3月7日。
このブログにも、
411回登場してくれました。
正月には毎年、
私とツーショットで、
あいさつをしました。
昨年4月12日が100カ日。
もう戻ってくることはありません。
それでもジジは教えてくれました。
「死というものは、
そのことを考えずに、
突然それを受けるほうが
耐えやすいものである。
これに比べて、
死について考えることは
たとえ死の危険が
なかったとしても
はるかに耐えがたいものである」
〈『パンセ』断章一六六〉
ジジの死によって、
多くのことを考えました。
「あなたが
死をおそれるときは
死はまだきていない。
死がほんとうにきたとき
あなたは
そこにいない。
だから死は、
おそれるにあたらない」
〈エピクロス〉
そう、死は恐れるにあたらない。
哲学者の雨宮民雄さんが書いています。
「日常の世界にも同じくらい
不思議なものが登場します。
それは、未来です。未来は、
やがて経験することになる時間のことと、
思っている人が多いのですが、
それは違います」
「現在や過去と異なり、
未来は、経験の彼岸に設定された時間です。
日常的には現在と過去だけでも
人間は生きられます。
それでも、世の中の動きに
ただ合わせるだけの人生に満足できずに、
主体的に生きようとする人々は
未来を見つめて生きています」
「その人たちの見つめる未来像は
幸福の国、ひとつの天国です」
「死んだらどうなるかの問いは、
ときに生きることから逃避する
投げやりな姿勢の現れともなりますが、
人類が長い歴史を通して、
問い続けてきた問いで
あることを考えますと、
人類の生き残り作戦の
ひとつではないか
と思われてなりません」
〈中央公論新社刊『子どもの難問』より〉
ときどき、未来の世界から、
ジジが帰ってくるような気もします。
ジジに限りません。
多くの人たちが、
「経験の彼岸に設定された時間」から、
現在の私たちを見つめてくれています。
私はただ、世の中の動きに
合わせるだけの人生に満足せず、
ひたすら、主体的に生きようと思います。
未来を見つめて生きていきます。
ジジが昨年の今日、
そのことを教えてくれました。
そして毎年正月の4日に、
考える機会を与えてくれました。
ありがとう。
さようなら。
〈結城義晴〉