連日の新年会。
ああ、疲れた。
昨日は横浜商人舎オフィス。
朝から来客。
まず、第一屋製パンの幹部の皆さん。
私の隣が前川智範社長。
マッキンゼー・アンド・カンパニーから、
ポッカコーポレ-ションなどを経て、
昨年1月に第一屋製パン社長就任。
今年は正念場の改革の年です。
入れ替わるように、
村上篤三郎さん、来社。
ランチは野田岩で鰻。
村上さんは、
㈱西友から㈱エコス常務を経て、
現㈱たいらや社長へ。
その後、現在は、
㈱ロピアの管理本部長。
商業経営問題研究会メンバーでもあって、
杉山昭次郎先生や磯見精祐さんと、
熱いディスカッションを重ねてきた。
お二人とも故人となってしまって、
なんとも寂しい限りだが、
村上さんは西友入社のころから、
昨年、物故された髙山邦輔さんに、
かわいがられた俊英だった。
現在は、躍進するロピアを、
マネジメントサイドから支える。
さて、日経新聞『私の履歴書』
今月はカルロス・ゴーン。
日産自動車社長で、
ルノー会長兼CEO。
おもしろい。
1954年、ブラジル生まれのレバノン人で、
パリ国立高等鉱業学校を卒業。
フランスの工学系グランゼコールの俊英。
卒業後、ミシュランに18年間在籍。
その後、ルノーに、
上席副社長としてスカウトされる。
ミシュランはタイヤメーカー、
ルノーは自動車メーカー。
子どものころから天才的な頭脳を持ち、
理工系の論理性を備える。
ミシュランでもルノーでも、
ゴーンは自ら、
数々の改革を成し遂げる。
その後、ルノーと日産は資本提携を結ぶ。
日産の経営が危機を迎え、
ルノーが救済に入る。
ゴーンはルノー上席副社長のまま、
日産COOとなって、
改革のために乗り込んでくる。
昨日の第12回は、
その「再生計画」
今日の第13回は、
「ゴーン・ショック」
再生のためにゴーンは、
各部門から中間管理職を集めて、
CFTを組織する。
「クロスファンクショナルチーム」
1チームは10人。
それが購買、生産、財務など、
10のチームに分かれて、
詳細を詰めていった。
CFTはゴーンの中心的な経営手法である。
ゴーンも各チームの議論に加わった。
例えば購買チーム。
「日産の車はルノーに比べて
20%も高く部品を買っていた。
高級品を使っていたわけではない。
取引部品メーカーがあまりにも多く、
規模の経済を生かせていなかった」
この現象、どれだけ多くの企業
現在も抱えていることか。
CFTメンバーは当初、
「3年間で5%のコストを削減」と言った。
しかしそれでは、
抜本的な改善にはならない。
ゴーンは言った。
「もっと大胆に考えよう」
すると一連の会議の最後には
「2年間で20%の削減」となった。
「積極的で、しかも、
裏づけのある数字を
導き出した」
ここで大事なことがある。
「私は頭の中に
自分だけの数字を持っていた。
だが、それを明かすことは一切なかった。
日産に必要なことは日産にある。
答えは社員の中にあるはずであり、
それを自力で見つけて仕事をしなければ
再生の難事業は不可能だった」
答えは社員の中にある。
それを自力で見つける。
「日産は絶望的な状況にあった」
国内シェアは26年間も下降線。
それまで8年間に7回の営業赤字計上。
有利子負債は2兆円を超えていた。
なぜか。
「1つは利益を
大切にしてこなかったからだ」
私の言葉でいえば、
利益にストイックでなかった。
当時、日産は43種類の車を売っていた。
黒字を出していたのはわずかに4車種。
当時の経営会議で、
新型車の開発計画が上がった。
赤字になることが明らかだった。
ゴーンは一言、
「ノープロフィット、ノープログラム」
そして却下した。
役員会で新車計画が通らなかったのは、
初めてだった。
担当者は反論した。
「それでは販売店で
売る物がない」
この発言、多いよな。
しかし赤字が明らかな製品は、
つくってはならない。
再生計画の検討は、
99年9月後半まで続いて、
1冊のファイルにまとまった。
10月、ゴーンは執務室にこもっって、
ファイルを熟読、推敲を重ねた。
「社員や株主、社会に、
どう伝えるべきかを考えた」
10月18日。
ゴーンは東京・箱崎の会場で、
「日産リバイバルプラン」を発表する。
NRPと略称された。
「説明し終えた私に、
国内外のメディアで埋まった会場からは
一拍おいて大きな拍手が起きた」
ゴーンはNRPを自ら信じ
人々にも信じてほしいと願った。
そのために公言した。
「1年後に
黒字化できなければ、
他の役員とともに辞める」
様々な反響。
部品取引の見直しは、
「系列破壊だ」と言われた。
しかしゴーンはすべて破壊するつもりは、
全くなかった。
「系列そのものが
悪い仕組みだと思ったことはない」
「日本には固有の歴史や慣習がある。
それはできうるかぎり、
尊重されるべきだと思っていた」
「ただし、それは仕組みが
機能していればの話である」
日産の系列取引の場合は、
そうではなかった。
NRPでは当時、
取引先を半分に減らすと
表明していた。
しかし、18年が経過した現在、
取引先の数は一度は減ったが、
日産の再生が果たされることで、
2000年以降、大幅に増えた。
同様に、NRPでは、
5つの工場を閉鎖し、
従業員を15万人から2万人減らした。
しかし再生後は、
世界中で15の工場を新設。
従業員数も24万5000人、
2倍近くに増員した。
財務では2兆円超の有利子負債が減り、
手元資金がそれを大きく上回る。
日産は売上高営業利益率を4.5%にし、
有利子負債を7000億円以下に減らした。
公約を2002年3月期に、
1年前倒しで達成。
「V字改革」と呼ばれた。
「目標を1つでも達成できなかったら、
日産を去る、と約束した私は、
00年6月に社長、
01年6月にはCEOに任命された」
私も㈱商業界社長のころ、
実はこのゴーンのCFTを採用して、
会社の改革にあたった。
そしてそれは一定期間に、
劇的な効果を発揮した。
日産のようには、
完結しなかったけれど。
中間管理職は、
非組合員で管理監督者である。
そのミドルマネジメントが、
改革の中枢を担って、
問題意識を共有し、
活発に部門間のやり取りをする。
そしてCFTの各チームが、
大胆に考え、積極的に、
裏づけのある数字を導き出す。
この改革の時に大事なのは、
「No Profit! No Program!!」
そして「利益にストイック!」であること。
これが時代を超えた、
改革のセオリーである。
〈結城義晴〉