西洋の神の物語。
神は最初の日に、昼と夜をつくり、
次の日には、天をつくった。
次の次の日に海と地をつくり、
植物を茂らせた。
次の次の次の日には、
太陽と月と星をつくった。
次の次の次の次の日に、魚と鳥を、
次の次の次の次の次の日に、
動物をつくった。
そしてこの日、自分に似せて、
男と女を創造した。
アダムとイブである。
そして、その次の日に、
神は、休んだ。
だから日曜日は休んで、
ぶらぶら歩く。
日曜漫歩。
アメリカから帰ってきて、
左足のふくらはぎを肉離れした。
そこで、ゆっくりゆっくり歩く。
横浜市港北区岸根町725。
岸根公園。
14万0587m²。
横浜市営地下鉄岸根公園駅から、
徒歩1分のところにある。
以前、ジョギングしていたころは、
自宅からここまで30分余り走った。
そして公園の中をジョギングした。
1時間超のコース。
横浜港北区の市街地の中に、
多くの木々に囲まれた、
「憩いと癒しの空間」がある。
岸根公園に隣接して、
野球場と県立武道館がある。
入り口を抜けると、
コンクリートの広場。
自転車等で遊ぶ子どもたち。
バドミントンをする若者たち。
石段を下りると、
大きな窪地に芝生公園がある。
その真ん中に大きなブナの木。
バスケットのハーフコートとゴール。
その隣はアスレチック。
「忍者とりで」と呼ばれるが、
ローラーすべり台は人気だ。
大人でも楽しめそうなアスレチック。
足が痛いので遠慮しておく。
大きな大きなブナの木。
太平洋戦争前の1941年、
横浜市は防空公園にしようと、
この付近の民有地4万3000坪を、
市の予算で買い上げた。
しかし戦況は悪化。
そして空襲が始まると、
この敷地の北の高台に、
日本帝国軍の高射砲陣地が設営された。
そんな努力も当然、実らず終戦。
5年後の1950年、朝鮮戦争が勃発。
進駐軍は朝鮮への攻撃の足がかりとして、
この敷地を接収して岸根基地として、
米軍は高射砲陣地を構えた。
さらに1955年4月には、
「岸根バラックス」と呼ばれる、
占領施設をつくった。
しかし1966年になると、
米軍は突然、この地に、
「第106総合病院」を開設。
4階建て鉄筋コンクリートの4棟。
ベッド数1000床の病院だった。
当時の横浜労災病院や横浜市民病院は、
いずれもベッド数が約650床。
ベトナム戦争の泥沼に入っていく米軍が、
朝霞、入間、立川などとともに、
野戦病院をつくったが、
岸根の第106総合病院もそれだった。
しかし1972年、
米軍キャンプと病院が撤収され、
市民のための公園に、
生まれ変わることになった。
1974年、横浜市の飛鳥田一雄市長が、
スポーツ公園として整備する計画を決定。
1989年3月に岸根公園が完成した。
窪地を東に下っていく。
紅葉したコナラ。
ブナ科の落葉樹。
これはモミジバフウ。
フウ科の落葉樹。
落葉すると小さな実が成る。
初冬に入ったが、
紅葉が美しい。
そして一番東の窪地に篠原池。
ここは桜の名所。
この池の下に、
地下鉄岸根公園駅のホームがある。
カモ。
花見の桟敷。
イロハモミジは本当に美しい。
ムクロジ科カエデ属の、もちろん落葉樹。
石で造られた椅子がある。
そして芝生公園のブナ。
この岸根公園の象徴だが、
公園開設の平成元年からもう28年経って、
ずいぶん大きくなった。
窪地公園から石段を上る。
春先にはもっともっと、
子どもたちが出てくる。
雪とけて村いっぱいの子どもかな
想像していると、うれしくなる。
階段を上るとうっそうと茂る木々。
こんもりした常緑樹。
芝生のひょうたん公園。
サッカーボールで遊ぶ犬。
葉が落ちた木々。
しかし根はしっかり張っている。
少しずつ日が沈む。
葉のない木々の向こうに、
月が見えてきた。
スーパームーン。
大きな大きな月。
月が出れば、
日曜漫歩も終わり。
けんだまケンケン
かたあしケンケン
おうちにかえろう
ケンケンケン
こんぼうコンコン
たたいてはしれば
でんしん柱が
イチニサン
カンカラカンカン
けとばしカンカン
おうちにかえろう
カンカンカン
(未曾司 作詞作曲)
〈結城義晴〉
〈岸根公園の記述は、
はまれぽ.comの吉岡まちこさんのレポートを参照しました。
感謝します〉