日曜日のささやかな説教
〈エーリッヒ・ケストナー〉
日曜日が来ると
かなり憂鬱になる
明日の月曜日の新聞のことを
想わずにいられないからだ
それというのも
日曜日にはかならず
殺人事件の二十やそこらは
きまって発生するから
新聞に眼を通す者は
翌日の月曜日
それを眼にせざるをえない
ねたみやら そねみやらは
一週間近くまでは
なりをひそめている
しかし 日曜日ともなると
その朝から晩にかけて
事態は一変する
平日には誰も
そんなことにかかずらわっている暇がない
しかし 日曜日ともなると
ほっと気がゆるんで
ついつい手綱をゆるめてしまう
いくら何でも もうちょっと
ましなことはないものか
わけも分からぬ皆殺しをやらかして
女房や家族ばかりか 自分までをも
地獄送りするよりほかには
ああ たいがいの人間は
暇つぶしが下手だ
時間をもてあますあまり無分別になる
その結果 こんなくだらないことが起こるのだ
もし人間が
義務もない 目標もない 苦労もない
天国で暮らすことになったら
最初に始めることはおそらく
おたがいを殺し合うことだろう
ケストナーは1899年生まれ。
ドイツのドレスデン。
ドイツ文壇の中心人物。
ナチス政権のもとで、
焚書の憂き目にあいながら、
旺盛な活動をした。
20世紀のドイツでも、
21世紀に日本やアメリカでも、
日曜日の憂鬱と月曜日の事件はかわらない。
ああ、人間とは、何なのか。
まっとうな人間(オネットム)
〈ブレーズ・パスカル〉
人から、あの人は
数学者であるとか
説教家であるとか
雄弁家であるとか
言われるようではいけない。
むしろ、あの人は
オネットム(まっとうな人間)と
言われるようでなければならない。
わたしが欲しいと思うのは、
この普遍的な美質だけだ。
もし、ある人を見て、
その人の著作を思いだすようでは、
それは悪い兆候である。
(断章三五)
1623年、フランスのオーヴェルニュ生まれ。
哲学者、数学者、物理学者、思想家。
「まっとうな人間」――その普遍的な美質。
しかし、ドイツ人のケストナーは、
ニヒルにものを考える。
悪の生い立ち(ゲネシス)
〈ケストナー〉
いつも痛感する――
子どもは可愛くて純真で善良だ
それにひきかえ大人は我慢ならない
そのことを思うと 気が滅入る
邪悪で醜悪なじじいだって
子どものころは純粋だった
いまは気立てのいい
愛くるしい子どもだって
いつかは こせこせした大人になる
どうしてこんなことになるのか
一体これはどうしたことだ
子どもにしても その本性は
蠅の羽をむしっているときなんだろうか?
子どもにしろ そのころからすでに
悪なんだろうか?
善と悪とはないまぜだから
どんな人間の性格にも善と悪がある
しかし 悪は抜きがたく
善は子どものころにすでに息絶える
ケストナーは悪を見透す。
善を追い求めると悪に突き当たる。
美徳の徹底追求
〈ブレーズ・パスカル〉
美徳を両方の端まで
徹底的に追求しようとすると、
悪徳があらわれる。
それは、小さな無限のほうから、
感知できない道を通って、
こっそりと忍び込み、
大きな無限のほうからは、
群れをなしてあらわれる。
その結果、人は悪徳の中で迷子になる。
もはや、美徳の姿など見えない。
人は完全な悪さえ避難するようになる。
(断章三五七)
悪徳の中の迷子。
それが人間だろうか。
悪徳の均衡
〈ブレーズ・パスカル〉
わたしたちが美徳の中に
身を持していられるのは、
自身の力のおかげではなく、
二つの相反する悪徳の、
均衡によるものである。
それは反対方向から吹いてくる風のあいだで
立っていられるようなものである。
どちらかの悪徳を取り除いてみたまえ。
たちまち、もう一つの悪徳の中に
落ち込んでしまうだろう。
(断章三五九)
悪徳の均衡の間に美徳があるように、
何かと何かの均衡の間に私たちがある。
国がある。会社がある。
悪徳とは犯罪のようなものだけでなく、
日常的なちょっとした悪意も含まれよう。
美徳もおなじく日常の善意が含まれる。
どちらかを取り除いてみたまえ。
たちまち、もう一つの中に、
落ち込んでしまうだろう。
パスカルの真理を見透す眼は、
あくまで冷徹だ。
〈結城義晴〉
(出典)
『E・ケストナーの人生処方箋』(飯吉光夫訳・思想社)
『パスカル パンセ抄』(鹿島茂編訳・飛鳥新社)