平成から令和へ。
二つの時代をまたぐように、
10連休が用意された。
2週間後にそれを控えて、
人々の動きが怪しい。
今日の日曜日、
突然、社会人の娘から、
プレゼントされた。
父の日は確か、
6月第3日曜日だったか。
理由のわからない贈り物。
それでも喜ばしい。
プレゼントされたのは、
左手に持っている手帳。
装丁にはグスタフ・クリムトの「The kiss」
日本名は「接吻」
私のスマートフォンのカバーも、
同じクリムトの接吻。
クリムトはオーストリアの画家。
1862年7月14日生まれ、
1918年2月6日没。
クリムトの生きたオーストリアの首都は、
ウィーンである。
オーストリア・ハンガリー帝国。
その帝国終焉のときにして、
19世紀の世紀末。
「世紀末ウィーン」は、
歴史上まれにみる爛熟期にあった。
その代表的な画家がクリムトで、
そのクリムトの代表作が「接吻」だ。
この原画が描かれたのは、
1907年から08年だといわれている。
キャンバスに、
油彩でペインティングされ、
金箔が施されている。
サイズは縦180cm×横180cmの正方形。
オーストリア・ギャラリー所蔵。
ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館。
私は本物を観たことがない。
キャンバス中央に、
抱き合う男と女。
二人の体は、
有機的なフォルムと輪郭線によって、
柔らかく表現され、
それぞれにまとうローブは、
男には長方形の模様、
女ローブには円形の模様。
作品の女性モデルは、
愛人のエミーレ・フレーゲ。
クリムトの手帳は、
書き込むためのものだ。
何も書かれてはいない。
それがいい。
雑記帳として、
手元に置こうかと思う。
一方、スマートフォンのカバーは、
私にとって何代にもわたってクリムトだ。
3年ほど前だっただろうか。
ニューヨークで携帯電話を紛失した。
しかし、奇跡的にそれが出てきた。
バスのターミナルに届いていた。
電話で確認したとき、
事務の女性が何度も言った。
「Picture! Picture!!」
スマホの裏側に、
美しい絵が描かれているというのだ。
クリムトに包まれたカバーによって、
スマートフォンは、
私のところに戻ってきた。
そのスマホと手帳。
令和の時代に、
何かいいことが、
ありそうな気がしてきた。
手元に携えて使う道具。
それが世紀末ウィーンの爛熟を象徴している。
日本の平成時代の最後のとき、
もしかしたら必要なのは、
世紀末ウィーンのときのような、
切迫感ではないかと思う。
焦燥感というのではない。
倦怠感でもない。
厭世観でもいけない。
緊張感をさらに増幅させた切迫感。
ピーター・ドラッカーは、
クリムトのウィーンに、
1909年に生まれている。
世紀末とは、
何かに突き動かされて、
時代が変わっていくもの。
その変わることの不安感と期待感。
両極の幅が広いほど、
爛熟度は大きくなる。
ドラッカーは政治や経済を、
極めて論理的に描き直した。
一方で、否応(いやおう)なしに、
この爛熟を体験しながら育った。
現在の日本にはそんなエネルギーは、
まったく感じられない。
だからこそ私は、
クリムトを手元に置きたいと、
強く感じてしまうのかもしれない。
〈結城義晴〉