台風15号の影響で千葉県は、
まだ37万軒も停電している。
東京電力が慎重過ぎるのか、
現場がモラルダウンしているのか。
さて日経新聞「私の履歴書」。
野中郁次郎先生。
一橋大学名誉教授にして、
「知識経営」の最高権威。
あの「失敗の本質」の著者。
おもしろい履歴書だ。
野中郁次郎は、
都立第三商業高等学校に入学した。
珠算3級や簿記3級が卒業資格だが、
試験に合格できない。
「簿記3級を受けたら、
100点満点で5点しかとれない」
「今度は珠算の試験を受けたら、
これも不合格だった」
「簿記の先生だった教頭先生から、
“学校始まって以来だ”とあきれられた」
笑える話。
この高校生が日本随一の博士になる。
「暗黙知と形式知」の概念を極める。
「数学が苦手というのもあるが、
とにかく簿記は体質に合わなかった」
野中先生、商売人にはなれない。
その後、なんとか、
早稲田大学の政経学部に進み、
富士電機㈱に入社し、
カリフォルニア大学バークレー校に留学。
このあたりの自ら道を開く力はすごい。
今日の「履歴書」は、
(11)学者の道へ。
「フランセスコ・ニコシア教授の指導を受け
2年間の経営学修士コースを修了した。
論文は義務付けられていなかったが、
ニコシア教授の研究の一端を担い、
ワーキングペーパーの形で提出した」
テーマは、
「米国のスーパーマーケットの比較研究」
これは知らなかった。
うれしい限りだ。
野中郁次郎の修士レポートは、
「米国スーパーマーケット比較」だった。
その後、博士課程に進む。
「ケーススタディーを重視する”経験主義”の
ハーバード・ビジネススクールに対抗して
バークレー校の博士課程は徹底した”理論派”で、
経験主義で育った私にとって、
分析的な方法論を学ぶ貴重な場となった」
経験主義と理論主義。
どちらも大事だ。
現場で経験を積んだ人間は、
ときに理論を学ぶ必要がある。
それが商人舎ミドルマネジメント研修会だ。
その第16回の2日目。
この研修会も第3回目から、
会場をニューウェルシティ湯河原にした。
自然の中に温泉があって、
講義会場は天井が高くて快適な空間。
食事はボリュームがあっておいしい。
神奈川県と静岡県を分ける千歳川。
奥湯河原の山並みが見えて、
景色もいい。
2日目の朝は第1回目の理解度テスト。
初日の結城義晴と鈴木哲男の、
両講師の講義から設問が出る。
受講生は皆、
昨夜遅くまでと今朝早くから、
復習に余念がなかった。
理解度テストは、
自分自身が、何を理解していて、
何を理解していないのか。
それを知るためのテストだ。
だから派遣した会社は、
その成績をパワハラに使ってはならない。
それだけは派遣企業の、
トップや人事部の皆さんに、
わかってほしい。
白部和孝先生。
ミドルマネジメントに必須の計数を、
午前中3時間にわたって講義。
一橋大学名誉教授も苦手とするところだ。
商品と在庫の計数から、
人時コントロールの計数まで、
わかりやすい解説をして、実践指導。
白部先生は現在、体調面もあって、
商人舎ミドルマネジメント研修会でだけ
講義してくれている。
ありがたいことだし、
受講生たちにとっても、
極めて幸せなことだ。
午後はドラッカー尽くし。
井坂さんは、
ドラッカーの研究者の一人で、
ドラッカー・マネジメントの要点を
実にわかりやすく講義してくれる。
ドラッカーに馴染みのない人にも、
ファンであるドラッカリアンにも、
そのマネジメントの魅力を語って、
まるで伝道者のよう。
そして恒例のQ&A。
㈱関西スーパーマーケットの友成要さん。
専門店チームシニアスタッフ。
それぞれの質問に、
ドラッカーの考え方を使って、
丁寧に答える井坂さん。
そして15時15分から、
20時までは結城義晴の講義。
はじめに、
第1回理解度テストの解答を示しつつ、
補足説明。
さらにミドルマネジメントが学ぶべき、
PSやBLなどの経営数値を講義。
そして組織に生まれる悪い兆候。
その兆候の原因をマネジメント理論に求め、
マネジメント理論の変遷を講義する。
理論の間違いが長らく、
日本の企業組織の体質に影響を与えた。
アンリ・ファヨールの古典的マネジメントから、
戦後の人間関係論や行動科学、
日本のマネジメント教育の弊害、
さらにドラッカーやミンツバーグの
現代のマネジメント理論まで、
一気呵成に講義する。
そしてミドルマネジメントのための
ドラッカーの実践的な方法論を、
結城義晴なりの事例を交えながら、
講義していく。
朝8時15分からの理解度テスト、
9時から夜8時までの講義。
長い一日。
夕食を終えると、
会場は自習室に代わる。
遅くまで復習に勤しむ受講生。
「高校や大学の受験以来、
こんなに勉強したことはない」
そんな声が聞こえてくる。
しかし野中郁次郎ですら、
簿記3級や算盤3級で落第した。
未来は、誰にも公平に開かれている。
(つづきます)
〈結城義晴〉