ほぼ日の糸井重里さん。
「今日のダーリン」
日々、同感することが多い。
「山に登る人は、
山に登りたいんですよね。
山に登ることを
仕事にしている人もいるけれど、
ほとんどすべての山に登る人は、
山に登りたいんです」
私も中学や高校のころ、
よく山に登った。
2009年の8月には、
㈱エコス会長の平富郎さんと、
富士に登った。
このブログの「2009富士登山記」
「頂上に立ったときの
達成感がたまらない。
どうやって攻略しようかと
考えを巡らせるのがたのしい。
じぶんの持っている力のすべてを
出せる機会がほしい」
「理由はいろんなふうに語れますが、
山に登ることそのものが
目的と言っていいと思います」
走る人は、走りたいから走る。
泳ぐ人は、泳ぎたいから泳ぐ。
飛ぶ人は、飛びたいから飛ぶ。
投げる人は、投げたいから投げるし、
打つ人は、打ちたいから打つ。
売る人は、売りたいから売るし、
つくる人は、つくりたいからつくる。
経営する人は、経営したい。
運営する人は、運営したい。
政治する人は、政治したい。
考える人は、考えたい。
書く人は、書きたいし、
読む人は、読みたい。
実は革命家という人たちも、
革命するのが好きだから、
革命するという節(ふし)があった。
カール・マルクスも、
ウラジミール・レーニンも。
ナポレオン・ボナパルトも、
ある意味、ルドルフ・ヒトラーも。
「流通革命」に広げて考えれば、
中内功も渥美俊一も。
「人は、
つらくても、
苦しくても、
お金がかかっても、
たくさんの時間をとられても、
危険があっても、
“やりたいことをする”のが
大好きなのである。
それは、そのことはわかるよね?」
わかる。
私は学びたい。
教えたい。
仕事でも、
ゴルフでも。
なんでも。
「金のためでもなく、
健康のためでもなく、
好きだから、
していることがある、
人間には」
「社会だと会社だとかでは、
大人同士の会話になると、
いくら儲かるのだとか、
ブランド価値がどうだとか、
どう得をするかを考えるのが
常識みたいになっている」
「だけどね、
しつこく言うようだけれど、
人は、やりたくてやることが
大好きなんだよ」
「得しようが損しようが、
辛かろうが、時間がかろうが、
関係ないんだよ、
やってることがうれしいんだ」
そして糸井の結論。
「損得を考えることが、
人生の50%を超えちゃ
だめだよね」
倉本長治。
「損得より先に善悪を考えよ」
これは損得を考えなくてもいい、
という話ではない。
損得は考えよ。
損益計算書の商売は大事だし、
貸借対照表の経営も必須だ。
だから倉本は言っている。
「欠損は社会のためにも不善と悟れ」
損得は大事だけれどもそれよりも、
善悪を考えることが先に来るよ。
糸井流に言えば、
「損得が人生の5割を越えてはいけない」
51%以上は善悪でなければならない。
あるいは「やりたいことをやる」
したがって倉本の「善悪」の「善」には、
「その人がやりたいこと」も含まれてくる。
やりたいことをやるのが人間の善である。
有名な西田幾多郎の『善の研究』。
その第三篇の第十一章は「善の動機」だが、
そのなかに出てくる。
「善とは自己の内面的要求を
満足する者をいうので、
自己の最大なる要求とは
意識の根本的統一力
即ち人格の要求であるから、
これを満足する事
即ち人格の実現というのが
我々に取りて絶対的善である」
糸井さんが言っているのは、
この西田の「善の動機」のことだが、
それは倉本の「善悪」ともつながる。
「損得を考えることが、
人生の50%を超えちゃ
だめだよね」
日々、やりたいことをやるのも、
仕事のやりがいも、
会社の経営も国の政治も、
この「善の動機」の外にはない。
あってはならない。
〈結城義晴〉