スポーツの日の祝日。
東京オリンピックの開会式は、
今日、開催されるはずだった。
COVID-19パンデミックによって、
来年に延期された。
さらにその来年の開催も、
危ぶまれている。
とても残念なことだ。
1964年の東京オリンピック。
第18回オリンピック競技大会。
昭和39年10月10日から、
10月24日までの15日間に行われた。
日本の国が先の敗戦から蘇り、
世界にその底力を見せつける、
バネとなるような、
エネルギーと自信をもたらした。
その開会式の日が祝日「体育の日」となり、
2000年以降、10月第2月曜日と変わり、
さらに今年、名称も、
「スポーツの日」と改められ、
今年だけ7月23日に移動された。
しかし今年、
そのオリンピックが開催されないから、
もしかしたら来年も、
7月24日の五輪開会式の日を、
「スポーツの日」にするかもしれない。
フランスのピエール・クーベルタン男爵が、
古代ギリシャのオリンピアの祭典を、
近代に再現しようと、
国際的なスポーツ大会を開催。
第1回はギリシャのアテネで、
1896年に開催された。
その第18回目の東京大会は、
有色人種国家が開催する初の五輪だった。
アジアやアフリカでは、
次々に植民地が独立を勝ち取っていた。
それらの国も参加して、
東京大会は過去最高の出場国数となった。
1956年は、
オーストラリアのメルボルン大会、
初めて南半球での開催。
1960年のローマ大会は、
第二次世界大戦の敗戦国での開催、
1964年の東京大会も同じく、
「旧枢軸国」日本での開催だった。
オリンピックとともに、
先の世界大戦の傷跡は癒され、
経済のグローバル化が推進された。
東京オリンピック以降は世界が、
「経済の時代」を謳歌することになる。
そして二度目の東京五輪は、
コロナパンデミックの最中。
「経済時代」の終焉を意味するのか。
1964年の1回目の東京五輪のとき、
私は小学校6年の12歳だった。
父とサッカーの試合を見に行った。
家のそばの横浜三ッ沢競技場で行われた。
日本代表は準々決勝で敗退したが、
次の1968年メキシコ大会で、
奇跡の銅メダルを獲得した。
このオリンピックを目標に、
首都高速道路が整備され、
横浜と東京は近くなっていた。
オリンピックが行われ、
その試合を実際に見る。
興奮した。
テレビも各家庭で購入され、
普及率は87.8%にまで飛躍的に高まった。
日本のメダル獲得数は、
アメリカ合衆国、ソビエト連邦に続いて、
三番目の29個となった。
そのうち金メダルは16個で、
柔道、レスリング、器械体操が、
世界一の選手を輩出した。
器械体操は、男子総合で優勝。
個人総合も遠藤幸雄、
跳馬の山下治廣、吊り輪の早田卓次、
平行棒の遠藤と、
金メダルを5つ獲得した。
跳馬の山下は、
「ヤマシタ跳び」を開発して、
世界の頂点に立った。
美しい飛翔だった。
今でも目に焼き付いている。
影響を受けて、
私は小学校から中学・高校と、
器械体操をやった。
女子バレーボールは、
東洋の魔女と異名をとって、
金メダルに輝いた。
日本は1964東京オリンピックから 、
国民が奮起し、生まれ変わり、
世界へと飛躍していった。
小売業の歴史を振り返ると、
1964年当時、その主役は百貨店だった。
この年、ダイエーが、
首都圏進出を果たした。
東京では中目黒店を開業した。
大阪では庄内ショッパーズプラザを開発、
日本初のショッピングセンターだった。
イオンの前身ジャスコは、
まだ誕生していなかった。
オカダヤ、フタギ、シロが、
それぞれに繁盛店をつくっていた。
セブン&アイ・ホールディングスは、
東京オリンピックの翌年に、
㈱伊藤ヨーカ堂と名称を変えていた。
ヨークベニマルは、
前年に紅丸商事㈱へ社名変更し、
組織を整え始めていた。
ライフコーポレーションは、
3年前に1号店の豊中店を開設して、
大阪・兵庫で多店化を始めていた。
関西スーパーマーケットはこの年、
伊丹ショッピングセンターを開設した。
この店だけの小売企業だった。
サミット㈱は、
前年に1号店の野沢店を開店し、
この年、米国セーフウェイ社と、
契約を解消した。
ヤオコーは有限会社八百幸商店だった。
SSDDSと称する総合スーパーと、
食品スーパーマーケットが勃興していた。
前者は、
セルフサービスディスカウントデパートメントストア。
コンビニエンスストアも、
ホームセンターもドラッグストアも、
本格的な業態はまだ登場していなかった。
1964年東京オリンピックは、
経済と消費の爆発をもたらし、
小売業やチェーンストアの発展に、
大きな影響を与えた。
そんな1964年、
小学生の私は将来、
商業の世界に身を投じるとは、
夢にも思っていなかった。
さて今日は、
そんな「スポーツの日」でもあって、
私たちもスポーツに勤しんだ。
横浜の名門、
「戸塚カントリー倶楽部」
梅雨は明けないけれど、
雨も降らず、いいゴルフ日和。
㈱プラネット会長の玉生弘昌さん、
社長の田上正勝さん。
そして全日本食品㈱会長の齋藤充弘さん。
実に楽しいゴルフで、
私はスポーツの日を満喫した。
もちろん名門クラブは、
ソーシャルディスタンシングも万全で、
安心してプレーできる。
最後に写真撮影。
しかし、
シャッターをお願いした係の人が、
スマホになれていなくて、
近寄って、指導。
大丈夫?
と、戻って。
はい、決まりました。
右の田上さんは、
1964年東京オリンピックの年の生まれ。
隣の齋藤さんはそのとき17歳だったし、
玉生さんは20歳だった。
ラウンドし終わってから、
レストランで懇談した。
ゴルフはこれがいい。
齋藤さんから最後に私への質問。
「結城さん、これまでで、
印象に残る経営者は、どなた?」
「ん~、やっぱり、中内さん。
そして岡田さん、伊藤さんですかね。
その存在そのもの、存在感がすごかった」
それから、
「北野さんのひたむきさは、
これも別格だったと思います。
何しろ自分が開発した技術を、
全部、無料公開したんですから」
それでも1964年のころは、
みんな普通の中小企業の社長だった。
〈結城義晴〉