COVID-19をはじめとして、
憂鬱な話題ばかり。
その中で、
藤井聡太棋聖の言動は、
心を安らかにしてくれる。
18歳となった若者が、
今、生きていて、
人生を燃やし尽くす。
それをアベマテレビなどで、
毎日、見ることもできる。
モーツアルトの少年のころ、
パブロ・ピカソの幼少のころと、
藤井聡太の子どものころは、
シンクロしている。
私はそう思うし、そう書いた。
昨年12月8日。
将棋界のイベントが開催された。
将棋プレミアムフェス in 名古屋2019。
ファン約700人が参集し、
対局やトークショーが行われた。
イベントでは「藤井聡太クイズ!」が行われ、
ファンからの質問にクイズ形式で、
藤井聡太が答えた。
その質問の一つが、
「将棋の神様にお願いするなら、なに?」
「神頼み」と言う言葉があるが、
多神教であっても神は、
人間が一方的に崇め奉る存在だ。
とくに一神教の神は、
すべての創造主で、
侵すべからざる絶対的存在だ。
質問したイベントのファンは、
軽い気分で「将棋の神様」を持ち出した。
これに対して、
イソップ物語ならば、
銅の斧を願って、
金の斧をもらえるかもしれない。
日本のおとぎ話なら、
小さなつづらをお願いして、
大きなつづらをいただける。
天才揃いの将棋プロでも、
お願いするとしたら、
「もっと高い実力を」と言うか、
「もっと体力を」と願うか。
「もっと冷静な精神力を」と答えるか。
藤井と同じ師匠をもつのが、
中沢沙耶女流初段。
その中沢女流が藤井とともに答えた。
「すべての対局を勝てますように」
ところが藤井の回答。
「せっかく
神様がいるのなら
一局、お手合わせを
お願いしたいと思います」
この“神回答”に対して、
会場からは「おっ~!」と、
驚きの声が沸き上がった。
藤井は不遜でもなんでもなく、
心からそう思っている。
もし将棋の神様がいるとしたら、
どんな将棋を指すのだろう?
どんな手を打つのだろう?
どんな作戦をとるのだろう?
1週間前の土曜日の朝日新聞。
とうとう「社説」にまで藤井君を登場させた。
藤井新棋聖「感想戦」に学びたい
「新聞を愛読し、
“僥倖(ぎょうこう)””望外”といった言葉を
使いこなす高校生棋士が、
若者らしさを一番感じさせるのは
負けた時だ」
「投了後に両者が一緒に対局をふり返って、
勝因、敗因などを分析する”感想戦”では、
何度もため息をつき、うなだれる」
将棋の対局が終わると、
両棋士がすぐに駒を並べ直して、
初めからすらすらと駒を動かす。
そして考え方を披歴し合う。
あれである。
かつて好きな言葉を聞かれて、
藤井は答えた。
「感想戦は敗者のためにある」
「感想戦という行為自体が
他(の世界)では珍しいと思う。
感想戦の意義をよく表した言葉かな」と。
ここで社説は、先の、
「神様と一局」の話を盛り込んで、
結論づける。
「双方の言葉から伝わってくるのは、
勝ち負けを超えて
将棋の本質に迫りたいという思いだ」
その通り。
私は思う。
藤井聡太が探求したいのは、
「最善」である。
藤井自身、発言している。
「いつも最善を求めています」
その「最善」を「神様への質問」から、
見出したのだ。
朝日社説。
「負けたり失敗したりした時、
人はしばしば、ただ落ち込む。
あるいは、ごまかす、
言い訳を考える、忘れようとする」
「逆にうまくいった時には、
都合のいいことだけを記憶に残して、
途中の過ちにはふたをする」
しかし本来、人間はそこで、
客観的に自分を見つめ直さねばならない。
将棋界は感想戦によって、
神のような人間を次々に育ててきた。
木村義雄、升田幸三、大山康晴、
加藤一二三、中原誠、米長邦雄、
谷川浩二、羽生善治、渡辺明、
そして藤井聡太。
私も「商売の神様」という言葉を、
時々使わせてもらう。
「神は現場にあり」
サム・ウォルトンの言葉は、
“Retail is Detail”だが、
これを私は勝手に訳して使う。
「小売りの神は細部に宿る」
こういったときの神様は、
「いちばん大切なもの」の意味だが、
それは「最善」でもある。
藤井は願わくば、
その「最善」と一局、
将棋を指して学びたいと言う。
あなたは商売の神様と競い合って、
学びたいか。
商売の「最善」と競争したいと、
考えることができるか。
私は商売の神様と議論したいと思う。
若い若い藤井聡太の志を、
少しでも追いかけたいと思う。
〈結城義晴〉