大阪府の新型コロナウイルス感染。
拡大が止まらない。
新規感染者数666人。
これまで一番多かったのが、
今年1月8日の654人だった。
5日連続で東京都より多かった。
結果的に見れば、
緊急事態宣言解除が早かった。
2月末日のことだ。
その前に2月17日、
ワクチン接種開始。
この2つのニュースが加わって、
人々の緊張感が解けたのではないか。
それは東京都をはじめとして、
神奈川県・埼玉県・千葉県にも、
及ぶかもしれない。
何度もなんども書いているが、
尾身茂先生の言葉。
新型コロナ対策分科会会長。
「新型コロナは、
人々の行動が感染動向を左右する」
「社会全体の感染防止への意識が
低下していないか判断しながら
アクセルとブレーキを踏む必要がある」
社会全体の意識と人々の行動。
それをアクセルとブレーキで操作する。
そのアクセルとブレーキがちぐはぐ。
フィリップ・コトラー先生の言葉。
「マーケティングの基本となる、
最も重要な概念は、
人間のニーズである」
ニーズがとらえられなければ、
マーケティングの欠落である。
デジタル庁や子ども庁のまえに、
マーケティング庁が必要だろう。
デジタルは方法論、
子どもはターゲティング論。
そのターゲティングは次に、
ポジショニングを求める。
つまりマーケティングによって、
政府・行政を先導する存在が求められる。
今日は商人舎オフィス。
このところ土日もなく、
出社している。
春のうら~ら~の新田間川。
そして裏の遊歩道。
新緑の季節。
桜も散った。
単行本の脱稿・責了から、
休まず雑誌の原稿書き。
さて昨日の北海道新聞、
その巻頭コラム「卓上四季」
劇作家岸田國士(くにお)の演出論。
「芸術の名に於て、
他人の苦痛や迷惑を
顧慮しないでよいといふ論法は、
断じて許し難いのだ」
どんな芸術でも、
人の苦痛や迷惑を顧みないことは、
許されない。
「脚本の本質的生命を無視し、
俳優本然の欲求を斥(しりぞ)けることは
演劇芸術への冒涜(ぼうとく)であり、
これは、強盗や悪資本家の所業と
選ぶところはないのだ」
演出家が、
脚本を無視し俳優の欲求を斥ける。
それを強盗や悪徳資本家と同じだという。
劇作家として、凄い怒り方だ。
テレビ番組出演の女子プロレス選手が、
視聴者からの誹謗中傷を受けた後、
亡くなった問題。
放送倫理・番組向上機構の放送人権委員会。
9人の委員が月1回話し合いをする。
その見解がまとめられた。
乱暴な女性のように描く「過剰な演出」に関して、
遺族から「人権侵害」があったと訴えられていた。
人権委員会はその主張を認めなかった。
「わかりやすく伝える演出は、
どこまで認められるのか。
表現活動が抱えるジレンマだ」
「肝心なところは強調したくもなる。
毒が含まれることもあろう。
超えてはならない一線は
常に揺らぎ、見えにくいものだ」
新聞も含めて私たちが、
経営者や店長、企業や店を評価する。
そのときにもこの表現のジレンマはある。
肝心なところは強調する。
毒が含まれることもある。
しかし超えてはいけない一線がある。
常に揺らぎ、見えにくい。
コラムニスト。
「社会が彼女を自傷行為に追い込み、
“弱い私でごめんなさい”という言葉を
遺(のこ)させたことを忘れてはならない」
テレビの演出が問題視される。
そして岸田國士の一言。
「一人の頭で
好い芝居を作るという
自惚れを棄てよ」
演劇の演出に限らない。
「一人の頭で好い番組を作るという
自惚れを棄てよ」
「一人の頭で好い会社を作るという
自惚れを捨てよ」
「一人の頭で好い店を作るという
自惚れを捨てよ」
「一人の頭で好い雑誌を作るという
自惚れを捨てよ」
以て自戒とすべし。
一人の頭で好い国は、
とても作れない。
マーケティングは一人ではできない。
だからコトラーは、
「マーケティング・マネジメント」と呼んで、
その重要性を強調する。
「マーケティングは、
個人によっても行われるが、
組織体がこれを行うのが普通である。
その意味でマーケティングとは、
組織体のマーケティングを指しており、
そこでマーケティング・マネジメントを
論じることになる」
〈結城義晴〉