一昨日の5月21日が、
二十四節気の「小満」だった。
関東はまだ梅雨入りはしていない。
青い空を雲が行く。
小満は「しょうまん」と呼んで、
万物が次第に成長して、
一定の大きさに達して来るころ。
ベランダの草花も成長する。
本当にいい季節だ。
朝日新聞巻頭コラム「天声人語」
伊達政宗の遺訓「五常訓」
そのなかの言葉。
「智に過ぐれば嘘をつく」
コラム。
「確かに知恵者は
ずる賢くウソが多そうだ」
「策士策におぼれる。
戦国武将の自戒とされるのもよくわかる」
ところが近年の研究は、
それを否定する。
「知能の高さと虚言の多さに
明確な関係はないそうだ」
「ウソをつきやすいと
科学的にわかったのは
欲ばりな人や創造性の豊かな人、
あるいは疲れている人だとか」
欲張りな人。
創造性の豊かな人。
疲れている人。
なるほど。
阿部修士京都大学准教授の著書、
『あなたはこうしてウソをつく』
「人間は生まれつき他人をだますのか。
それとも成長して不正直者になるのか」
阿部さんはそんな疑問から研究を始めた。
答えは単純ではない。
「脳機能を調べてわかってきたのも、
性善説と性悪説の両方を
あわせもつ複雑な脳のはたらき」。
米国のデータでは、
「人は1日に平均1回ウソをつく」
米国人はこんなこともデータ化する。
「誰かを傷つける邪悪な偽りだけでなく、
やさしさの虚言もあれば、
悲しみを忘れようとの自己欺まんもある」
コラム。
「そもそも私たちは真実と虚偽とを
つねに行き来する存在らしい」
コラムは、
「義に過ぐれば」を取り上げて述懐する。
「正しさだけでは窮屈ということか」
あすは伊達政宗の385年目の命日。
儒教の「五常」は「仁・義・礼・智・信」
政宗はこの五常を土台にして、
アレンジを試みた。
仁に過ぐれば弱くなる。
義に過ぐれば固くなる。
礼に過ぐれば諂(へつらい)いとなる。
智に過ぎれば嘘をつく。
信に過ぐれば損をする。
伊達政宗はリアリストだった。
第一訓の「仁」は儒教の根本思想で、
他人に対する親愛の情や優しさのことだ。
優しすぎると弱くなる。
しかしイエス・キリストは言う。
「右の頬を 打られたら、
左の頬も差し出しなさい」
政宗から見ると、
それは弱さとなる。
さらに第三訓の「礼」が過ぎると、
おべっか、追従、忖度となる。
最近の日本の役所のことを言っているようだ。
第五訓「信」は、友情に厚く、
人をあざむかないこと、誠実なこと。
孔子は言う。
「民、信なければ立たず」
人民は「信」がなければ、
生きていくことができない。
政宗はそれも行き過ぎると、
「損をする」と言う。
江戸時代の「儒教」は勉強の材だった。
勉強が過ぎると実務ができない。
政宗はそう言いたかったのかもしれない。
何事も「過ぎる」のはよくない、と。
しかし「過ぎる」の主張が「過ぎる」と、
もっとよくない。
とりわけ仁と義と信は、
商売に不可欠で、
いくら「過ぎる」でもいいと思う。
最後に拙著「Message」から。
嘘をつく店
「この店は滅びる」
倉本長治は言い放った。
よほど腹が立ったのか、
それともひどく悲しかったのか。
私も近頃、そんな気持ちになることがある。
客を平気で待たせる店。
買いたい品が見つかりにくい店。
欲しいものが品切れしている店。
買った商品が傷んでいる店。
きたない店。
一番いけないのは、
嘘をつく店。
「安い」と「良い」とは、
突き詰めると同じことだ。
品質が同等で価格が低い状態を
「安い」といい、
価格が一定で品質が高い状態を
「良い」という。
ただし、「安い」も「良い」も、
嘘をつかない店でのことだ。
客を待たせない店、
分類と陳列の整った店、
欠品のない店、
品質のしっかりした店、
きたなくない店、でのことだ。
「安いよ、安いよ」と
大声を張り上げている者にかぎって、
嘘つきの店がある。
きたない店が多い。
そしてこんな店には、
「買物の得」はあっても、
「生活の得」はない。
「暮らしの得」を提供する店を、
「デスティネーションストア」と表現する。
(中略)
競争はやがて、賢い消費者を
多種多数、誕生させる。
逆に、競争者自身は
多産多死の状態に陥る。
しかし、それは良いことなのだと思う。
進化を意味するのである。
だから私もこう言い切ろう。
嘘をつく店など、滅びてしまえ。
永遠に、この地上から無くなれ。
〈結城義晴〉