立花隆さんが亡くなった。
80歳だった。
4月30日、急性冠症候群で死去。
メディアに報じられたのは、
今日6月23日だった。
2007年に膀胱癌の手術を受けたし、
糖尿病や心臓病の持病を持っていた。
ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
私は立花隆に影響された。
1977年に㈱商業界に入社して、
販売革新編集部に所属した。
「流通革命」を標榜する月刊誌だった。
私は将来、何になるか、
自分では決めていなかった。
漠然と文章を書く仕事に就いて、
それが商業や流通業の世界のことで、
自分でもどうしたらいいのか迷っていた。
商業界には倉本長治先生がいた。
岡田徹先生や新保民八先生も知った。
「流通革命」の林周二先生、
流通産業研究所の上野光平先生、
チェーンストア産業論の渥美俊一先生。
ダイエーの中内功さん、
イトーヨーカ堂の伊藤雅俊さん、
当時のジャスコの岡田卓也さん、
西友の堤清二さん。
そして関西スーパーの北野祐次さん、
サミットの荒井伸也さん。
ほかにも多くの素晴らしい人たちがいた。
だから商業の世界の意義や面白さは、
すぐに自分でも納得できた。
しかしその中で私は何をするか。
そのころに読んだのが立花隆だった。
『中核vs革マル』(1975年、講談社)
その取材のすごさ、
当たった資料の膨大さ、
考察の広さ、深さ、鋭さ。
眼が眩むほどだった。
もう一冊は柳田邦男さん。
『零式戦闘機』(1977年、文藝春秋)
戦前のゼロ戦の開発物語を、
丹念に、丁寧に取材して描いた。
商業の世界を舞台に、
こんなノンフィクションを書こう。
それが20代の結城義晴の目標となった。
その意味で立花さんは恩人である。
その後の1976年刊『田中角栄研究』(講談社)、
1978年『日本共産党の研究』(講談社) 、
1980年『農協』(朝日新聞社)。
私が書いていたのは、
「関西スーパースタディ」、
「あるPOS-VAN実験の全貌」、
「ラルフの24時間」、
「サミットスタディ」etc。
その後、文中敬称略の、
ノンフィクションスタイルの長編記事を、
機会を見つけては書いていった。
もちろん幼い作品ばかりだったが、
私は現場を徹底して調査した。
それは立花、柳田、両氏のおかげだ。
その後、立花さんは、
「朝日ジャーナル」誌上で、
「ロッキード裁判」に関して、
渡辺昇一氏と論戦を展開した。
木っ橋微塵に打ち砕いた。
これも毎週発刊を楽しみにしつつ、
むさぼり読んだ。
立花さんは政治や社会から、
宇宙やサルや脳の世界へと、
関心を広げていった。
「命」を解明したかったのだと思う。
そんななかの1996年、
『インターネット探検』(講談社)では、
現在のネット社会を予言した。
何よりも「物書き」にとって、
極めて便利であることが、
私には強く印象づけられた。
この慧眼には今でも感服する。
2007年には二つの大学院の特任教授に就任。
東京大学大学院情報学環と立教大学大学院。
立教では21世紀社会デザイン研究科だった。
私は2年後の2009年に同じ立教で、
ビジネスデザイン研究科の特任教授になった。
キャンパスで直接会ったことはなかったが、
ここに立花さんもいるのかと、
ちょっと気持ちを高ぶらせた。
そのまえに1991年には、
書斎兼書庫として「猫ビル」も建てた。
東京の文京区小石川。
地上3階地下1階建てで、
地下にワインセラーがある。
猫好きでワイン好き。
同好の士でした。
それにしてもまだ80歳。
本当に惜しい逝去だと思う。
しかし自ら「脳死体験」をした立花さん。
その瞬間を本体験したことになる。
2018年の『死は怖くない』
「ぼくは密林の象のごとく死にたい」
きっと安らかに亡くなられたに違いない。
ご冥福を祈りたい。
今日は午後から東京・浜松町。
駅前の日本生命浜松町クレアタワー。
この6階の会議室3。
㈱True Data株主総会。
第21回の定時株主総会で、
全員の取締役再任が承認された。
私は2008年から社外取締役を務めるが、
もう一番の古手になってしまった。
その取締役の皆さんと写真。
これからもよろしくお願いします。
それにしても立花隆さん。
現場や現物に当たって、
事実を追求し、真実を探求する。
この精神は立花さんからいただいた。
True Dataも同じだ。
守り続けたい。
合掌。
〈結城義晴〉