近畿と東海地方で梅雨明け。
関東甲信よりも1日遅れた。
近畿・東海は5月16日に梅雨入りして、
7月17日に梅雨明け。
62日間で統計開始以来最長記録。
なんと2カ月以上も梅雨だった。
不思議なことに四国だけ残って、
あとの地域は梅雨が終わった。
その四国の梅雨入りは5月15日で、
まだ明けないから2カ月を完全に超える。
こうなると日本の四季は変わってくる。
はる・つゆ・なつ・あき・ふゆ。
春・梅雨・夏・秋・冬。
つまり「五季」となる。
[極端気象]であることは間違いない。
そして新型コロナウイルス感染。
今日確認された新規感染者数は、
東京都が1410人、神奈川県も539人。
大阪府380人、埼玉県318人。
そして千葉県が244人。
全国で3886人。
1都1府3県で全国の74.4%。
重点的にこれらの地域に、
ワクチン接種はできないのか。
素人発想だが、そう思う。
作家の村上春樹さん。
ラジオ番組「村上RADIO」で発言した。
昨年末のこと。
「コロナは突発的な疫病なんですけど、
グローバル化、気候の温暖化、SNSの普及、
ポピュリズムの台頭、貧富の差の拡大という
世界の全体的な潮流の一部みたいな
気がしてならないんです」
このブログでも紹介したし、
拙著『コロナは時間を早める』でも引用した。
私は「その通りだ」と書いた。
「コロナはすべての事象に関連していて、
そのなかで突出した人類の弱みに、
つけ込んできた」
「旧約聖書の”バベルの塔”のごとき
パラドックスをはらんでいる」
異常変化の梅雨とその後の酷暑。
世界中の極端気象。
そしてCOVID-19パンデミック。
何か大きな力が働いて、
人間の自己過信や奢り・高ぶりを、
抑え込もうとしている。
そう考えるのは、
あまりに運命論者的であるか。
文学者的過ぎるか。
近代オリンピックも、
人間の自己過信や奢り・高ぶりを、
実は内包してきてしていると思う。
ピエール・ド・クーベルタンによって提唱され、
1896年にアテネで第1回が開催された。
8競技43種目で14カ国・地域の参加。
男子だけの大会だった。
基本はアマチュアリズム。
目的は古代ギリシャの平和の祭典の復興。
しかし、二度の世界大戦でそれぞれ中断され、
1972年のミュンヘンオリンピックでは、
「黒い九月」によるテロ事件が起こった。
1980年のモスクワ五輪には、
ソ連のアフガン侵攻に西側諸国が、
参加ををボイコットした。
政治によってオリンピックは、
その本質をゆがめられた。
次に、やってきたのは利益主義である。
1984年のロサンゼルス五輪で、
ピーター・ユベロス大会組織委員長が、
完全なショービジネス化を成し遂げて、
2億1500万ドルの利益を生んだ。
それ以来、五輪=儲けの構造が出来上がり、
「商業主義」が追求された。
こんなところで「商業」と言う言葉は、
使ってもらいたくはないが。
さらに1974年、ウィーンでのIOC総会で、
憲法ともいえるオリンピック憲章から、
アマチュア条項が削除された。
プロ選手の参加は、
各競技の国際競技連盟に任されている。
だから例えばサッカーでは、
男子で出場できるのは24歳以下の選手で、
特別に3人のオーバーエイジ枠がある。
一方、女子には年齢制限がない。
バスケットボールは、
国籍以外の制約条件はない。
だから1992年のバルセロナ五輪では、
米国NBA選手の「ドリームチーム」が結成され、
マイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンが参加した。
アマチュアリズムはもう存在しない。
それでも「平和の祭典」の意義だけは、
まだまだ燦然と輝き続けている。
そしてコロナ禍の五輪が、
どこまで平和の祭典であり続けられるか。
それは変異株の感染拡大や、
巨大なクラスター発生が、
防御されることだ。
それを祈りたい。
朝日新聞「折々のことば」
一昨日の第2084回。
優しくしすぎない。
同情しすぎない。
気休めを言わない。
(村上信夫『嬉しいことばが自分を変える』から)
「相手が
“自分自身で自分を助ける力を引っ張り出す”
まで、余計な励ましなどせずに
傍らでじっと待つこと」
「人を支えるというのは
そういう厚い沈黙のこと」
NHKの元エグゼクティブアナウンサー。
2012年9月に商人舎オフィスに来てくださった。
「”相手の絶望に完全に寄り添うのは難しい”
と思い知る人から、
“お気持ちはわかります”といった
生半可な言葉など出てくるはずはない」
さあ、平和のためのオリンピック。
アスリートたちを応援する。
本人が成果を出しても出せなくても、
優しくしすぎない。
同情しすぎない。
気休めを言わない。
コロナ下のオリンピックだ。
厚い沈黙によって、
とくに敗者たちを支えたい。
〈結城義晴〉