終戦の日。
76年前の今日、
先の大きな戦争は終わった。
日本にとっては敗け戦。
米英中露にとっては勝ち戦。
重い重い日だった。
「戦争を知らない子供たち」であっても、
その重さを背負っている。
私も「知らない子供たち」のひとりだ。
戦争は知らないけれど、
その重さを背負わねばならないし、
背負いたいと思う。
父は戦争の最後の最後に従軍した。
中国の大連で成長した父に、
「赤紙」が来て、
満州の関東軍に配属された。
ほとんど訓練も受けずに、
父ら新兵たちは列車に詰め込まれて、
満州鉄道を奥へ奥へと連れて行かれた。
ある駅に到着したら、
上官が新兵たちを列車から下ろした。
そして言った。
「お前たちはここから歩いて帰れ。
戦争は終わる」
それで父は生き続けた。
だから私が存在する。
横浜は今日も雨。
街中が煙っている。
遠くにみなとみらいの高層ビル。
雨と霧に隠れてぼんやりとしか見えない。
横浜そごうの駐車場のジューススタンド。
ひまわりのブーケを買いました。
それを実家の仏前に。
線香をあげて、
両手を合わせる。
例年の8月15日は、
カンカン照りの日が多い。
しかし今年2021年は、
梅雨の終わりのような停滞前線が、
日本列島を覆いつくす。
[極端気象]
そして新型コロナウイルス感染。
東京都の1日の新規陽性判明者は、
日曜日として最多の4295人。
重症の患者は251人で、過去最多を更新。
神奈川県は2081人。
こちらも日曜日としては過去最多。
千葉県は1374人で、
日曜日にもかかわらず、
3日連続で過去最多更新。
関西も新規感染者は多い。
大阪府1764人、兵庫県517人、
京都府414人。
福岡県681人、
沖縄県661人、
愛知県609人。
そして全国では1万7832人。
これまでの死者は1万5424人。
朝日新聞「折々のことば」
第2116回。
死のがわに拉致されるか、
生のがわにのこされるかは、
まったくの偶然。
〈歌人・佐藤通雅(みちまさ)〉
「東日本大地震の日の
その時間、偶々(たまたま)
“だれと、どこにいて、
なにをしていたか”で
被災のかたちはみな違った」
(『路上』最終号から)
編著者の鷲田清一さん。
「こうした偶然に人は苦しみ、
そしていつか運命として受け容(い)れる」
先の大戦で私の父は、
生のがわにのこされた。
「が、無謀な戦争や
過失による災禍のように、
これが誰かの不見識、
その愚かで小心な差配によるのなら、
納得は最後まで訪れない」
「死んでも死にきれない」
毎日新聞一面コラム
「余禄」
「今度の戦争に敗れた一つの理由は
主観的な観念性に走って
科学を媒介とした客観性、世界性から
遊離したことにあった」
1945年8月20日の、
高坂正顕(こうさか・まさあき)さんの言葉。
京都大学人文科学研究所長。
カント哲学の祖の一人。
1900年~1969年。
故高坂正堯(まさたか)さんはその次男。
元京都大学教授、国際政治学の巨人。
1034年~1996年。
その高坂さんの父上。
終戦の5日後に言い切った。
「外に目をふさいで己(おのれ)を高しと
いうような趣はなかったか」
「ひとりよがり」な日本の、
「自己認識、世界認識に敗因を求めた」
トップのひとりよがりや不見識、
主観的な観念性への傾斜、
客観性、世界性からの乖離によって、
末端の人間たちは、
死のがわに拉致されるか、
生のがわにのこされるか。
それがまったくの偶然だとすると、
「死んでも死にきれない」
志村けんさん、
岡江久美子さん、
高田賢三さん、
岡本行夫さん、
羽田雄一郎さん。
新型コロナウイルスによって、
死のがわに拉致された。
終戦の日は多くの人々の死と、
向き合うときである。
それがお盆の真ん中にある。
COVID-19の感染拡大の最中にある。
死と向き合うとき私たちは、
想像を超えた恐怖とともに、
命の尊さを痛いほどに実感する。
なによりも大切なものが、
心のなかで浮き彫りになる。
それが生き抜く力にもなる。
〈結城義晴〉