昨年の今日、8月28日。
安倍晋三前首相が辞意表明。
ああ、あれから1年か。
この1年間、
COVID-19パンデミックが、
ここまで来るとは、
誰が予想しただろうか。
その間、菅義偉新首相が担って、
ここまで来てしまった。
どう受け取るかは、
個人によって差がある。
しかし世界がここまで来て、
日本もここまで来た。
1年前の安倍総理退任記者会見。
質疑応答の最後の方で、
ジャーナリストの神保哲生氏が、
「安倍政権のメディア対策」と、
「政権のメディアとの関係のもち方」に関して、
鋭く質問した。
1年前が思い出される。
質問の主旨を簡単にまとめると、
事前に質問を提出させて、
それにあらかじめ答えを用意して、
メモを読みながら、
その質問にだけ答える記者会見を、
安倍晋三首相自身はいいと思うか。
正面からの答えは得られなかったが、
菅政権になってこの1年間、
この神保氏の指摘した点は、
さらにひどくなった。
最近の記者会見は、
見ていられない、
聞いていられない。
首相官邸側も、
記者もジャーナリストも、
ともに劣化が激しい。
結果として、
国民に真実が伝わらない。
戦後の総理大臣として、
故大平正芳第68代・69代首相は、
秀逸だったと思う。
辻井喬著『茜色の空』で描かれる。
辻井はセゾン総帥の堤清二さんのペンネーム。
大平は読書家でクリスチャン。
「戦後政界指折りの知性派」だった。
故田中角栄64代・65代首相は評した。
「大平君は政治家というよりは
宗教家だねえ、哲学者だねえ」
人間の知的活動にも学術・学問にも、
大平は終生、畏敬の念を抱いた。
演説や国会答弁、記者会見の場で、
「あー、うー」と前置きをした。
そこで「アーウー宰相」と言われた。
子どもたちまで「あー、うー」と真似をした。
しかし大平は頭の回転が早く、
発言も論理的だった。
「あー、うー」以降は早口でもあった。
その「あー、うー」のあとは、
乱れなく、見事な文章となっていた。
早野透著『田中角栄』で、
角栄が大平を評価しつつ、
記者たちを説教している。
「アーウーを省けば
みごとな文語文になっているんだぜ。
君らの話を文章にしてみろ。
話があちこち飛んで
火星人のように何をしゃべっているのか
分からんぞ」
大平正芳や田中角栄。
彼らと競い合った福田赳夫や三木武夫も、
そして同時代の安倍晋太郎も、
自分の頭で考え、
自分の言葉で語った。
自分の戦略があり、
自分の政策があり、
だから自分の言葉があった。
それがこのところ消えた。
経営者にも実務家にも、
リーダーと呼ばれる人たちには、
必須の心構えであり、能力だろう。
毎日、毎時、毎分、毎秒、
考えに考え、考え抜いていれば、
自分の考えが固まる。
そして自分の言葉が出てくる。
自分の頭で考え、
自分の言葉で語る。
私も講義のときにいつも言う。
「結城先生の言葉を、
君たちがなぞっても、
説得力がない。
自分の言葉に置き換えて、
自分の事例を盛り込んで、
周りの人や上司、部下に語る。
それができて初めて、
その内容がわかったということだ」
安倍首相退任から1年して、
そんなことを思った。
演説も答弁も会見も、
そして会議での発言も、
毎日の店舗や部署での朝礼も、
コミュニケーションである。
ピーター・ドラッカーは、
教えてくれる。
コミュニケーションには4つの基本がある。
その第1が「知覚」。
知覚とは理解し、納得すること。
理解させ、納得させること。
だから、
コミュニケーションを成立させるものは、
受け手である。
コミュニケーションを成立させるのは、
その内容を発する者ではない。
聴く者がいなければ、
コミュニケーションは成り立たない。
故佐藤栄作首相の最後の記者会見は、
怒った首相が会場から記者を全員追い払って、
たった一人、テレビカメラに向かって語った。
その場の受け手は誰もいなくなった。
カメラの向こうの視聴者だけとなって、
無残な姿が残った。
佐藤も最後に感情的になった。
それはコミュニケーションにとって、
大きなマイナスである。
ドラッカーの言う第2は、
「コミュニケーションは期待である」
「われわれは、
期待しているものだけを知覚する。
期待していないものは
受けつけられることさえない」
したがって、
「期待されているものが何かを
知らなければならない」
「期待するものを知って、初めて、
その期待を利用することができる」
第3に、
「コミュニケーションは要求である」
「従って、何かをしたいという
受け手の気持ちに訴えることが
何よりも重要である」
大平や田中は、
受け手である記者や国民の、
気持ちに訴えることができた。
大平はあくまで知的に論理的に、
田中は一流のわかりやすさと熱で。
最後にドラッカーは教える。
「情報とコミュニケーションとは
別物である」
現菅義偉首相の記者会見は、
書かれた情報の伝達である。
残念ながら「知覚」がない。
コミュニケーションがない。
それは本人にとって、
不本意なはずである。
記者やジャーナリストにとって、
国民にとって、
ひどく不幸なことである。
そうして1年が過ぎた。
自民党総裁選挙、
そのあとの衆議院選挙を経て、
このコミュニケーション不在の日本は、
あるべき姿を取り戻すことができるのか。
政治がコミュニケーション不在となると、
実業界までその傾向が伝染してこないか。
杞憂に終わればいいのだが。
〈結城義晴〉