毎日新聞巻頭コラム、
昨日の「余禄」
中国古代の思想家・韓非子(かんぴし)。
中国初代皇帝・秦の始皇帝に言わしめた。
「会えたら、わしは死んでも悔いはない」
その韓非子が国家の人事を位置づけた。
「国の存亡と治乱を決する分かれ目」と。
説くところは、
「人を動かすには、
その功績に見合った褒賞を与えよ」
「功を計(はか)りて賞を行う」
これが「論功行賞(ろんこうこうしょう)」の由来。
ここで「論」は、
是非や善悪を述べること。
功績の是非を述べて、賞を与えよ。
コラム。
「正確な人事考課で
労働意欲を発揮させようという
合理的な発想だが、
戦争の手柄に対する
褒賞の意味で使われることが多い」
日本でも明治以降、
日清戦争から太平洋戦争まで、
功労者や戦死者に爵位や勲章を贈った。
「論功行賞」である。
「戦後はもっぱら、
政治の世界の用語になった」
そしてコラム。
「自民党の岸田文雄新総裁の人事も、
“論功行賞”がキーワードだ」
「岸田氏を総裁選勝利に導いた
実力者の影が色濃い」
自民党や岸田総裁を支持する人には悪いが、
ちょっと露骨すぎて、情けなくなる。
もうこの新総裁スタート時点で、
「言ってることとやってること」の、
矛盾が露呈している。
「適材適所」などと言うけれど、
「3A」への論功行賞人事は明らかである。
まずABE前首相の息のかかった人事、
次にASOU副総理兼財務相は副総裁、
さらにAMARI岸田選対顧問は幹事長。
コラム。
「1982年に発足した
中曽根康弘内閣を思い出す」
私も思い出した。
「田中曽根内閣」
当時、田中角栄元首相は、
ロッキード事件の被告だった。
しかしその角栄元総理の力によって、
中曽根新総裁が誕生した。
そして露骨な田中派優遇人事を行った。
翌年、田中元首相への有罪判決。
直後の総選挙で自民党は大敗北。
中曽根総理は、
「田中支配」からの決別宣言をした。
田中曽根内閣などと揶揄されて、
短命とも見られたが、
「田中離れ」を進めて、
むしろ長期政権を実現させた。
岸田新総裁は訴えてきた。
「政治の根幹である信頼が崩れている」
その岸田言うところの「崩れた信頼」の一因は、
明らかに安倍政権と菅義偉政権にある。
その「安倍氏らが人事まで動かすのでは、
党改革も信頼回復もおぼつかない」
コラムの結語。
「得意の”聞く力”がどこを向いているのか。
注視している国民は少なくないはずだ」
ブレーズ・パスカル。
「パンセ抄」
断章二九八「正義と力」
正しいものに
人が従うのは正しいことで、
いちばん力の強いものに
人が従うのは必然的なことである。
力のない正義は無力である。
正義のない力は暴君的である。
(パスカルは対比的に表現する)
力のない正義は反対される。
なぜなら、いつの時代でも
悪人というものはいるからだ。
(悪人が正義に反対する)
正義のない力は非難される。
したがって、正義と力は、
一緒にしておかなければならない。
そのためには、
正しいものが強いか、
力のあるものが正しいか、
どちらかでなければならない。
中曽根が正しかったと仮定しても、
中曽根には力がなかった。
角栄は力はあったが正しくはなかった。
ロッキード裁判で有罪となったことが、
それを証明している。
正義は論議の的になる。
力は見てすぐにわかるから、
論議する必要はない。
このように、正義に
力を与えることはできなかった。
力は正義に文句を言い、
正義は正しくないと言ったからだ。
(困ったことにたいていの場合、
正義に力は与えられない)
そして、力は、
正しいのは自分だと言った。
そこで、正しいものを
力のあるものにすることができなかったので
力のあるものを
正義ということにしたのである。
どんな時代にも、こんな現象が起こっている。
それを自覚させられることこそ、情けないものだが。
最後にまど・みちお。
いわずに おれなくなる
いわずに おれなくなる
ことばでしか いえないからだ
いわずに おれなくなる
ことばでは いいきれないからだ
いわずに おれなくなる
ひとりでは 生きられないからだ
いわずに おれなくなる
ひとりでしか 生きられないからだ
まど・みちおに共感する今日だ。
〈結城義晴〉
【追伸】
このブログは政治の話ではありません。
正義と力に関する考察です。