北京の冬季オリンピックが終わった。
日本選手団の活躍には、
感銘を受けた。
外国選手たちの躍動にも、
心打たれるものがあった。
カーリング女子は、
惜しくも銀メダルとなったが、
最終日まで楽しませてくれた。
平昌で銅メダル、
北京で銀メダルならば、
次のミラノ・コルティナダンペッツォでは、
金メダルも予想できる。
過剰な期待をかけるつもりはないが、
それは私たちの率直な楽しみだ。
アイスホッケー男子は、
フィンランドが6戦全勝で金メダル。
この初優勝はとてもよかった。
夏季五輪の最終種目がマラソンならば、
冬季五輪はクロスカントリー。
閉会式でその表彰が行われた。
しかしなんとも後味の悪い冬季五輪だった。
「習氏の習氏による習氏のための五輪」
日本経済新聞2月5日版が、
朝刊一面で書いたように、
完全に政治に利用された。
ロシアはドーピング問題によって、
国としての出場ができない。
そのロシアのプーチン大統領が、
開会式に出席した。
中国、ロシアなどの専制国家の元首たちが、
その専横を隠しもせず、
冬季五輪の舞台で存在感を誇示する。
それに対して、
民主主義国家は無力だった。
1936年のベルリン五輪の教訓は、
どこに行ったのだろう。
2月5日のブログでそう書いたが、
終わってみてもやはり同じ気持ちだ。
世界の未来が心配になる。
朝日新聞「天声人語」
トーマス・バッハIOC会長に批判的。
「先月末、北京市の公園に
真新しい銅像がお目見えした」
例のバッハ胸像。
バッハ会長と要人が歓待を受けた晩餐会。
「目を見張るほど巨大なテーブルの上に、
色鮮やかなジオラマ。
満開の花々や雪原が表現されている」
北京郊外の五輪会場の航空写真。
「黒い山肌に、スキーとボブスレーの
競技会場だけが不自然に白いのだ。
雪が降らず、人工雪でしのいだ」
「五輪自体の持続可能性に疑問を感じた」
その通り。
日経新聞「社説」
タイトルは、
「五輪に人権と調和の理念を取り戻そう」
「ウクライナ情勢が緊迫する中で
競技が続き、閉会式の日を迎えた」
「五輪憲章は、
人間の尊厳の保持や平和な社会をめざし、
調和ある発展のために
スポーツを役立てると謳う」
「理念とかけ離れた大会のあり方は、
五輪の存続そのものを危うくしかねない。
IOCは組織と五輪運営の
抜本的な改革に乗り出す時に来ている」
社説や巻頭コラムは、
ほとんど例外なく、
北京五輪とIOCに批判的だ。
朝日新聞「折々のことば」
昨2021年8月8日の第2109回。
このブログで一度、紹介した。
政治家が行き来するより、
文化が行き来するほうが、
ずっと国と国の関係を
よくする効果がある。
(『天野祐吉のCM天気図 傑作選』から)
スポーツも文化だ。
だからオリンピックは、
人類が行き来する典型的な文化だ。
編著者の鷲田清一さん。
「感覚に快いものは、
主義主張の厚い壁、
時に無意識の不安に起因する
根深い偏見をもかい潜(くぐ)って
ひたと染みわたってゆく」
スポーツの快さは、
主義主張も根深い偏見も、
かい潜って人の心に染み渡っていく。
だからこそ、
それが利用されることは、
断じて避けなければいけない。
次の冬季五輪はイタリアだ。
夏季五輪はフランスのパリだ。
不思議なことに、
ちょっと安心な気分もある。
私の心が欧米に毒されているわけではない。
ギリシャで生まれた五輪だから、
ヨーロッパ開催ならば、
今回のような違和感を感じないのだろう。
もちろん専制国会での開催では、
ないからでもあろう。
しかしローマ帝国は、
風刺詩人ユウェナリスによって、
「パンとサーカス」と批判された。
「サーカス」は、
映画のベンハーなどに出てくる、
複数頭立て馬車の競走や、
剣闘士の格闘などの見世物である。
皇帝、すなわち権力者によって、
食糧と娯楽が無償提供された。
国家が強く管理した五輪も、
見方によれば「サーカス」ということになる。
どんな時代にも、
スポーツと食べものは、
専制に利用されやすい。
美辞麗句を並べ立てても、
それ自体には快さがあっても、
専制に利用されやすい。
2000年も前からの教訓である。
心してかからねばならない。
〈結城義晴〉