「三月はライオンのように来て、
子ヒツジのように行く」
その三月が去って、四月。
新年度がスタートした。
2022年4月1日金曜日。
私は1977年4月1日に㈱商業界に入社して、
社会人の一歩を記した。
ちょうど45年前のことだ。
その45年前の4月1日も、
金曜日だった。
翌日、私は休日出勤した。
そして稲垣佳伸さんに会った。
稲垣さんは㈱Do Houseの前身の会社、
ドゥタンクダイナックスの新人で、
自分で企画した「フリーマーケット」を、
実験的に運営していた。
極めて早い時期の、
先鋭的な試みだった。
日本の世の中にはフリーマーケットなど、
まったくなかった。
それを手伝いつつ、取材した。
記事にはならなかった。
当時の商業界は、
完全週休2日制で、
祝祭日ももちろん休日。
労働組合員は、
5月1日のメーデーの日も、
会社に出なくてよかった。
年間有給休暇も、初年度は20日。
翌年から1日ずつ増えて、
最大、40日を取得することができた。
その年に消化できなければ、
翌年に持ち越すことが可能だった。
休日出勤も有給休暇に、
振り替えることができた。
極めて先進的だった。
サラリーマンにとっては、
天国みたいな会社だった。
しかし、先進的過ぎることは、
よい結果を招きはしない。
出版社の仕事や経営は、
それでは成り立たない。
私の入社から43年後の4月2日、
㈱商業界は自己破産した。
私はこの会社の体制を無視して、
遮二無二、働いた。
30年を経過したときに、
代表取締役社長を辞して退社した。
「商人舎発足を祝う会」が、
翌年の4月17日に開催された。
ここで「商業界を卒業した」と言ったら、
㈱アークス社長の横山清さんに叱られた。
「卒業なんて気に食わないし、
独立も実は気に食わない。
新しい世界に入学というのならばいい」
「何はともあれ、
結城義晴君に大いに期待する」
私は新しい世界に入学したと、
考えることにした。
持っていたものを捨てることにした。
だから大学院の教員にもなった。
産業内大学や企業内大学もつくった。
そして15年が経過する。
新しい世界は、
新しいなりの価値があった。
今日はそんなことをしみじみと思った。
商人舎オフィスのそばの新田間川。
沿道に桜が満開。
オフィス裏の遊歩道。
早咲きの桜でもう散っている。
それでも桜は散り際がいい。
遊歩道に面して、
Roof Top Cafeがある。
2階の窓辺から遊歩道が見降ろせる。
ここから見る桜も大好きだ。
今日は1日、原稿執筆と入稿。
月刊商人舎4月号。
69歳の編集者。
まだまだ遮二無二の仕事は続いている。
3月9日の「折々のことば」
朝日新聞の一面コラム。
その第2315回。
コツに頼らないこと、
いつも白紙に戻すことが、
大事だと思っている。
(作詞家・松本隆)
「詞を書く時に
“コツで書かない”ようにしている」
「”こうやったら売れる”という
体で憶(おぼ)えた方法論に頼らず、
むしろそれをつねに外してゆくこと」
「不安ではあるが、そうしないと、
今人々に足りないもの、
つまり時代の”ひび割れ”が見えず、
だからその向こうも見えずに
終わってしまう」
『松本隆のことばの力』から。
松本隆ははっぴいえんどのころから、
よく聴いていた。
松本はドラマーで作詞担当(左上)。
一番才能のあった大瀧詠一(左下)は、
早くして死んだ。
一番若かったギタリスト鈴木茂(右上)も、
もう70歳になった。
一番ものを考えた細野晴臣(右下)は、
巨匠になった。
松本の言葉。
「体で憶(おぼ)えた方法論に頼らず、
むしろそれをつねに外してゆくこと」
一流になるためには、
「売れる経験」は必須だ。
ミュージシャンも小説家も、
編集長もジャーナリストも、
経営者も商人も。
しかしその売れた方法論ばかりに頼っていると、
売れなくなる。
鈴木敏文さんの言葉。
セブン&アイ・ホールディングス元会長。
「過去の成功体験を捨てろ」
柳井正さん。
ファーストリテイリング会長兼社長。
「成功は一日で捨て去れ」
松本。
「不安ではあるが、そうしないと、
今人々に足りないもの、
つまり時代の”ひび割れ”が見えず、
だからその向こうも見えずに
終わってしまう」
不安ではあるが、
過去の成功体験を捨てないと、
新しい成功体験はできない。
「卒業ではなく、入学と言え」
過去の成功体験に、
少しでも頼ろうとする心根は、
あらためなくてはいけない。
私は遮二無二、そうしてきた。
失敗だらけだった。
去年も事業を一つ、止めた。
けれど商業や小売業を通して、
「時代のひび割れ」を見たいと思った。
「まだまだ」の4月1日です。
「♫春らんまんだ~ね⤴」
〈結城義晴〉