朝日新聞一面コラム「折々のことば」
編著者の鷲田清一さんには、
いつも驚かされる。
あらゆるジャンルの人物の短い言葉が、
今日の世界や日本の一瞬をとらえている。
その第2345回。
忙中閑あり
(ことわざ)
「しないでいいことばかりさせられて
忙しいのは御免(ごめん)だが、
したいこと、すべきことが
まったくないのも辛(つら)い」
忙しい中に、
ちょっとした閑(ひま)がある。
それが一番いい。
「”忙”がもし心を亡くしていること、
心ここに在らずということだとしたら、
いちばん怖いのは、
したいこととさせられていることの区別が
本人にすらつかなくなること」
日々の仕事に追われていると、
自分がやりたいことと、
上司や会社からさせられていることが、
区別できなくなる。
それが一番怖い。
同感だ。
いつも自分のやりたいことがわかっていて、
会社や上司はそれを助けてくれる。
応援してくれる。
そして自分がそれを成し遂げれば、
会社にも社会的意義や利益がもたらされ、
上司の成績にも部下として貢献できる。
それが幸せな仕事との関係だろう。
自分のやりたいことと、
会社のやりたいことが、
違っているとすれば、
それは会社を辞めるか、
我慢しつつもいち早く、
社長になるしかない。
自分のやりたいことと、
上司のやりたいことが、
相反するとすれば、
人事異動を申し出るか、
会社を辞めるか、
我慢しつつ、上司を、
超える立場になるしかない。
私は幸いにして、
会社のやりたいことと、
自分のやりたいことが、
本質的には一致していた。
上司とはときに考え方が異なったが、
我慢しつつ、上司を超えようとした。
若かったから怒りは仕事にぶつけたし、
会社以外の世界の人に教えを乞うた。
私が学んだ大半のことは、
社外の人たちからだった。
費やす時間の大半は社内の仕事だったが、
学んだことの多くは社外だった。
雑誌の著者の先生方、
優れた経営者や実務家の皆さん。
仕事柄、それが許された。
それは大いにラッキーだった。
それによって上司を超えた。
鷲田さん。
「とはいえこのところ、
コロナ禍で
“忙”と”閑”が反転し、
“閑”からも
ときめきが失せている」
鷲田さんが一番言いたいことは、
これだ。
忙と閑が反転している人が多い。
不思議なことに、
多くの忙のなかに、
少しの閑があると、
その閑がきらめくし、ときめく。
けれど閑が多くて、
忙が少なくなると、
閑はきらめかないし、ときめかない。
そのときは、
忙がときめくのかもしれない。
「人は田舎や海岸や山に
引きこもる場所を求める。
君もまたそうした所に
熱烈にあこがれる習癖がある」
「しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ」
「というのは、
君はいつでもすきなときに
自分自身の内に
引きこもることが出来るのである」
「実際いかなる所といえども、
自分自身の魂の中にまさる
平和な閑寂な隠家(かくれが)を
見出すことはできないであろう」
(マルクス・アウレリウス『自省録』より)
マルクス・アウレリウスは、
古代ローマ時代の五賢帝の最後の皇帝。
優れた皇帝、賢い皇帝が五代続いた。
(結城義晴撮影:メトロポリタン美術館のアウレリウス像)
古代ローマ最高の時代である。
塩野七生『ローマ人の物語』では、
第11巻「終わりの始まり」の主人公だ。
アウレリウスは、
ストア派の哲学者でもあった。
北はイングランドから、
南はアフリカ、東は中近東まで、
広く地中海沿岸を治めたアウレリウスは、
生涯、辺境の部族との闘いに奔走した。
その合間のわずかな時間に、
日々の行動と考え方を点検して、
『自省録』を書いた。
まさに忙の中に閑を求めた。
それが考察と執筆だった。
そして自分自身の魂の中に、
平和で閑寂な隠家を求めた。
どんなに忙しくても、
一日の内に休息の時間はある。
それも「忙中の閑」である。
忙しく売場をつくっていて、
顧客から「ありがとう」と声をかけられる。
それによって心が温かくなる。
これも一瞬の「忙中の閑」と考えられる。
マルクス・アウレリウスの言う、
「自分自身の魂の中」の出来事である。
そしてこの「忙中の閑」がある限り必ず、
考え方の反する上司を超えることが出来る。
〈結城義晴〉