非常に強い台風12号。
沖縄県の先島諸島を暴風域に巻き込んで、
石垣島の南を北寄りに進んだ。
その沖縄県知事選挙。
現職の玉城デニー候補が、
再選を決めた。
野党の推薦を受けて、
元宜野湾市長の佐喜真淳候補を破った。
こちらは与党推薦。
ほぼ日刊イトイ新聞。
その巻頭エッセーは、
糸井重里の「今日のダーリン」
「日本人の会話というか
情報交換の1%くらいは、
“年齢”にまつわることではないだろうか」
そうかもしれない。
「ぼく自身も、
よく話に出てくる人のことを
“いくつくらいの人?”
と訊くことがあるからね」
あるある。
「いまだと、エリザベス2世の年齢が、
ある種の敬意を込めて語られている」
「亡くなる2日前、
首相任命の握手の写真は笑顔だった。
96歳、こんなふうにありたいものだと思う」
同感だ。
このところ、友人たちが話題にするのが、
“ほぼ日をはじめたころのイトイさんの歳”
「それはつまり49歳だ。
1998年のことだった」
私が㈱商人舎を始めたのは、
55歳だった。
2008年のこと。
「40代になったくらいから、
たいていの人たちは
“もう若くない”とか”歳だから”とか、
いかにも老いたようなことを口にする」
「40だとか50だとかは、
スポーツ選手でもないかぎり、
なにかすることに
まったく差し障りはないと思う」
そのとおりだ。
「徹夜ができななくなった」なども、
「60歳くらいから、それが現実になってくる」
「60歳は、かなりのことはやれると思う」
「ぼくの実感では、
衰えの境目は65歳じゃないかな」
私は衰えの境目は、
65歳ではないと思う。
70歳になっても、
「衰えの境目」はまだ先だと思っている。
「周囲の人たちがじぶんより若くなろうが、
じぶんが老いたと思う必要なんかない」
糸井さんが言いたいことは、
これだ。
「”歳とったなぁ”とか老人ぶるのは、
おじさんたちよ、まだまだ早すぎるよ」
私がよく引用するのが、
佐藤一斉の「言志四録」
少(わ)かくして学べば、
すなわち
壮にして為すこと有り、
壮にして学べば、
すなわち
老いて衰えず、
老いて学べば、
すなわち
死して朽ちず。
だから「壮にして学べば、
老いて衰えず」は、
永遠なり、である。
「死して朽ちず」は、
考える必要がない。
「あたらしいことが
やりたいうちは、
大丈夫なのだと思うよ」
そう、
「あたらしいことがやりたいうち」は、
まだまだ若い。
だから新しいことに、
どんどん挑戦しよう。
若い人たちに、
説教じみた話をするなんて、
糸井さんもちょっと老いたか。
私も。
自分の経験を話すことは良いけれど。
壮にして学べば、
すなわち
老いて衰えず。
つまりは、学びつづけ、
挑みつづけようということだ。
何かにすがりついたり、
どこかに安住しようとしたり、
それは老いたことを意味する。
「”歳とったなぁ”とか老人ぶるのは、
おじさんたちよ、まだまだ早すぎるよ」
これからだよ。
「100年時代」のコンセプトは、
すべての人々に「これからだよ」と、
教えている。
96歳で逝ったエリザベス女王も、
107歳で亡くなった小嶋千鶴子さんも、
すべての人たちに、
「これからだよ」と、
諭している。
〈結城義晴〉