FIFA World Cup Qatar 2022。
70歳になったが、
サッカーでこれほど歓喜したことはない。
日本代表がドイツを破り、
スペインに勝って、
グループEのトップで予選を突破した。
12歳の小学6年のころ、
1964年の東京オリンピックが開催された。
三ツ沢競技場に、
サッカーの試合を見に行った。
家のすぐそばだった。
私の父は古河電工の社員で、
日本代表のディフェンダー鎌田光夫が、
仕事上の直属の部下だった。
当時はプロ化されてはいなくて、
代表選手も仕事を持っていた。
だから私も、
実業団強豪の古河電工を応援していた。
八重樫茂生は「伝説のキャプテン」と呼ばれた。
古河のキャプテンで、
全日本でもキャプテンだった。
八重樫、鎌田のほかに、
川淵三郎や宮本政勝らがチームメイトだった。
ディフェンダー鎌田の系譜はやがて、
全日本の柱谷哲二から、
井原正巳、吉田麻也へと継承される。
八重樫、鎌田らは、
1968年のメキシコ五輪の代表となって、
釜本邦茂や杉山隆一とともに、
銅メダルを獲得した。
やがてJリーグが発足すると、
川淵はそのリーグ・キャプテンとなった。
ワールドカップでは、
1998年のフランス大会。
パリ郊外サンドニのスタッド・ド・フランスへ、
ルーマニアとチュニジアの試合を見に行った。
シアル・ドール日本代表審査員を務めていて、
事務局が審査員全員を招待してくれた。
日本代表はアジア最終予選で、
イランとのプレーオフに勝利して、
ワールドカップ初出場を果たしていた。
「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれた。
その4年前が有名な「ドーハの悲劇」だ。
この敗戦で日本はアメリカ大会への出場権を逃した。
フランス大会のジャパンは、
全敗に終わった。
予選リーグではクロアチアに1対0で負けた。
優勝はフランス、準優勝はブラジル。
フランスにはジネディーヌ・ジダン、
ブラジルにはロナウドがいた。
3位にはクロアチアが入った。
このチームにはダヴォール・シューケルがいた。
シューケルはこの大会の得点王に輝いた。
それから24年後のカタール大会。
日本対スペイン戦。
明け方の4時から始まった。
私は1時まで仕事をして、
3時58分に目覚ましをかけて、
無理やり起きて、試合を見た。
前半11分、スペインの猛攻の中で、
アルバロ・モラタのヘディングシュートが決まった。
前半は完全にスペインにボールを支配された。
後半に入ると堂安律と三苫薫が投入された。
すると流れが変わった。
後半3分。
スペイン陣で伊東純也が猛スピードのプレス。
ヘディングで競り合って、
浮き球が堂安の足元に落ちた。
堂安は絶妙のトラップでディフェンダーをかわし、
ペナルティエリアの外側から、
強烈な左足のシュートを放った。
ボールはゴールキーパーの手を弾いて、
ゴールに突き刺さった。
その3分後、
堂安のゴール前へのゴロのセンタリング。
三苫がゴールラインぎりぎりで飛び込んで、
折り返しのセンタリング。
その球に田中碧が合わせてゴール。
堂安のシュートと三苫のセンタリング。
世界トップのプレーだった。
そして日本は2対1で勝利をつかんだ。
森安一監督は興奮していた。
一気に語って、感動をかみしめた。
堂安律は冷静だった。
「あそこはオレのコースなので、
あそこで持てば、
絶対に打ってやると決めていた。
思い切って打ちました」
いつもクールな三苫薫。
「これまでのW杯においても
大きな2勝だと思います。
でも次の勝負でベスト8に行ければ
もう一つ歴史がつくれる」
そのスピード、ドリブルテクニック、
どれをとっても超一級品だが、
ディフェンスのときの、
忠実さと強さ、圧力は特筆されるべきものだ。
中田英寿、本田圭佑を超える逸材だ。
キャプテンの吉田麻也。
「言葉になりません。
やっぱこれだから代表やめられない」
ドイツとスペインに奇跡の大金星。
ジャイアントキリングと言われる。
しかしもう大金星でも、番狂わせでもない。
自然・必然・当然である。
グループEの首位。
決勝トーナメント1回戦の相手は、
グループF2位のクロアチア。
前回のロシア大会準優勝、
1998年のフランス大会3位。
「新しい景色」はクロアチアに勝利したときに、
はじめて見えてくる。
〈結城義晴〉