江川卓の始球式。
開幕第2戦のジャイアンツ対ドラゴンズ戦。
左足を高く上げた。
現役時代と変わらないダイナミックなフォーム。
投げ終わった。
しかしボールはホームベースの前に落ちた。
肩を抑えながら帰ってくる。
作新学院の高校時代。
公式戦のノーヒットノーラン9回、
完全試合も2回。
県予選トータルの被安打2で、
夏の甲子園出場。
選抜高等学校野球大会では、
一大会通算最多奪三振60個。
法政に進んだ大学時代。
東京六大学野球リーグ17完封。
日本プロ野球史上6人目の投手5冠。
ずっと見続けてきた。
この始球式にはがっかりしたけれど、
それは江川自身が一番感じたことだろう。
亡くなった村田兆治は最後まで、
マサカリ投法で130キロは投げた。
江川の現役時代の最速の球は、
1981年9月9日の大洋戦とされる。
20勝を達成した登板の最後の投球が、
158キロだった。
江川は回を追うごとに、
球速が上がる投手だった。
球の回転は史上最高だった。
大谷翔平や佐々木朗希の、
164キロくらいの威力はあった。
高校からプロ時代まで、
肩を酷使した。
それがこの始球式の球だ。
酷く悲しい気がしたが、
江川は余力を残さずに、
現役を引退したのだと思った。
巨人軍入団のとき、
「空白の一日事件」が起こった。
江川は巨人に入りたかった。
1977年度の大学4年のドラフト会議では、
ライオンズから指名されたが、
それを拒否して1年間浪人した。
1978年度の2回目は、
ドラフト会議の11月22日の前日の21日に、
巨人軍と電撃契約した。
前年のドラフト会議の期間が切れたものと、
巨人軍が勝手に解釈して、
「空白の一日」に契約してしまった。
ナベツネの意向だ。
それはリーグ事務局が無効としたが、
今度はドラフト会議で、
阪神タイガースが指名権を得た。
江川は交渉権を持つ阪神と契約を結んだ。
そして一旦、阪神に入団したうえで、
エースの小林繁との交換トレードによって、
巨人に移籍することになった。
明らかな不正入団だ。
しかしそれが通ってしまった。
以来、「巨人・大鵬・卵焼き」の反対の、
「江川・ピーマン・北の湖」と嫌われた。
この事件があったからだと思う。
江川は肩を酷使し続けた。
そして引退してからも、
ジャイアンツの監督になれなかった。
悲劇の人・江川卓。
それらのことがすべて、
この始球式の一投に込められていて、
私は心の中で泣いた。
もう、許すよ、江川。
まだまだ人生は長い。
頑張れ。
〈結城義晴〉