訃報です。
中西太(なかにし・ふとし)。
旧西鉄ライオンズの不動の4番、サード。
背番号6。
90歳の卒寿を迎えたばかりだった。
自分でも満足した人生だっただろう。
1952年、香川県の高松第一高校から、
西鉄ライオンズに入団。
私が福岡県の早良で生まれた年だった。
走攻守3拍子そろった逸材で、
「怪童中西」と呼ばれた。
高卒の新人が、
開幕戦からスタメンで出場。
このルーキーイヤーに、
中西はレギュラーに定着し、
新人王を獲得する。
身長172センチと小柄で小太りだったが、
俊敏でリストが強く、
無類の長打を誇った。
プロ2年目の1953年には、
本拠地だった平和台球場で、
バックスクリーンを越えた特大本塁打を放った。
推定飛距離160m。
「伝説」をつくった。
2年目には四番に座って、
打率3割1分4厘、本塁打36本、盗塁36。
今で言う「トリプルスリー」を達成した。
もちろんその新人時代を私は知らない。
しかし周りの大人たちは、
中西太に熱狂していた。
しかもライオンズが強かったから、
九州人気質で熱烈な応援をした。
子供ながらに、
その九州人気質に影響されて育っていった。
ライオンズはその後、
鉄腕稲尾和久、策士豊田泰光、
仰木彬、大下弘、関口清治、高倉照幸ら、
個性的な強者たちがずらりと揃った。
監督は“知将”三原脩。
博多を本拠地にしたパリーグの“野武士軍団”は、
1956年から3年連続日本一を獲得。
私も少しずつわかり始めていた。
人気のセリーグで、
東京に本拠を置く巨人軍は、
水原茂監督が率いていた。
三原とは因縁の間柄。
それを破って日本一を達成すると、
九州は燃えた。
私はこの西鉄と中西から、
反骨精神を授けられた。
私にとって、
西鉄と中西はその反骨の象徴である。
だから草野球をやったときにも、
私の背番号はいつも中西の6番だった。
圧倒的な存在感で、
弱冠29歳でライオンズの監督を兼任。
1963年にはパリーグ優勝を果たした。
私は横浜に引越していて、
テレビで応援した。
中西は引退してからも、
日本ハムと阪神監督を務めた。
近鉄とオリックスでは、
西鉄時代の後輩仰木彬監督を、
コーチとして支えて、
リーグ優勝と日本一を達成した。
指導者としても優れていて、
バッティング理論では随一だった。
ヤクルトの若松勉、
オリックスのイチローなど、
特徴的な名選手を育てた。
現役時代は、
本塁打王5度、首位打者2度、打点王3度。
日本で初の三冠王は野村克也だが、
その前の時代、
三冠王を獲るのは、
中西以外にないと言われ、
幾度となくそのチャンスがあった。
現役通算1388試合、1262安打、
244本塁打、785打点、打率3割7厘。
凄いインパクトを残した伝説が逝ってしまった。
名選手名監督にあらず。
しかし名選手は教えることには、
誰よりも長けていた。
ご冥福を祈りたい。
私は横浜の商人舎オフィスに出て、
午後一でオンライン会議。
JTB大阪支社の商人舎担当のお二人。
小阪裕介さんと森川泰弘さん。
秋のSpecialコースの打ち合わせ。
レジェンド小阪は管理職となって、
現場の添乗から離れた。
代わりに森川さんが担当している。
いまのところ、
ドンタコス森川と呼ばれているが、
愛称は仕事ぶりで変わる。
頑張ってほしい。
Specialコースは、
10月10日から17日。
ダラスに2日間、ニューヨークに3日間。
Basicコースが基礎を学ぶならば、
Specialコースは応用を身に着ける。
是非のご参加を。
遅くとも5月中には募集を開始する。
そのあと私は夕方、
横浜市立白幡小学校へ。
学校は木々に囲まれている。
校歌には「緑」という言葉がよく使われるが、
学校と緑はとても似合う。
校庭を見ると、
中西太もこんなグランドから、
野球を始めたのだと思った。
私はかつてこの小学校で、
PTA会長を務めた。
どんなときにも地域貢献をしていたい。
同じ考え方でいま、
白幡文化スポーツクラブの会計監査をしている。
今日はその監査の日。
監査を終えて役員の皆さんと交流。
令和5年度の児童会スローガン。
白幡小学校の児童たちがつくったもの。
希望、宇宙、チャレンジ。
希望とチャレンジはわかるが、
宇宙はわからん。
それでもスケールの大きなことを考えている。
中西太の座右の言葉は、
「何苦楚」だった。
「なにくそ」と読む。
人生は「何」ごとも「苦」しい時が
自分の基礎(「楚」)を作るのだ、という意味。
それは教え子に受け継がれている。
オリックス時代の田口壮、
ヤクルト時代の岩村明憲。
彼らも「何苦楚」を自分の言葉にしている。
今の子どもたちとも、
「何苦楚」はチャレンジでつながっている。
〈結城義晴〉