今宵の月。
右上が少し欠けた。
昨夜の満月。
今日も1日、原稿と取り組む。
月刊商人舎8月号は、
私の原稿を口述筆記にしてもらった。
構想を練ってメモを書いて、
それを見ながら、
山本恭広編集長に向かって、
講演のように語る。
それを編集スタッフの鈴木綾子が、
原稿に起こしてくれる。
出来上がった原稿をみんなが手直しして、
最後に自分で完成させる。
いいものになった。
ありがとう。
でも、これが一番時間がかからない。
それから特集タイトルは、
亀谷しづえGMが、
凄くいいアイデアを出してくれて、
決まった。
最後の追い込み。
それが終わってから、
電車に乗って帰宅。
帰ってからブログを書く。
いつものことだけれど、
そしてずっとやってきたことだけれど、
二つも三つも同時並行で仕事をする。
しかし、それが結局、
もっとも成果が上がる。
原稿書きは世の中で、
もっとも生産性が低い種類の仕事だ。
そんな職種の人は、
自分を追い詰めながら、
仕事を多能にこなして、
能率を上げるしかない。
1977年4月1日に㈱商業界に入社して、
販売革新編集部に配属された。
そして最初の雑誌の編集後記に、
自己紹介の記事を書いた。
販売革新1977年5月号。
今、その雑誌は手元にはないが、
こんなことを書いたと記憶している。
「博多生まれの横浜育ち。
学生時代は無頼派。
信条は追い詰められること」
それ以来46年間、
私は締め切り主義者である。
46年前に自ら書いた信条は、
いまも私を縛っているし、
私を支えてくれている。
ビル・ゲイツも語っている。
「なんでもギリギリにすると、
一番スピードが上がって効率がいい」
ゲイツの言葉は、
このブログで何度か紹介した。
いまもそれを実感している。
日経新聞の「私の履歴書」
先月は建築家の伊東豊雄さんだった。
基本的にこの1カ月の連載は、
毎月、自慢話のオンパレードだが、
中に、きらめく日がある。
伊東さんの連載は第7回。
「建築の師 身体的な思考法を学ぶ」
1965年、伊東豊雄は、
菊竹清訓建築設計事務所に入社する。
私も販売革新の駆け出しのころ、
菊竹清訓事務所で、
対談に立ち会ったことがある。
「菊竹さんのもとで、僕は、
身体的にものをつくる姿勢を教えられた」
若い頃はこれが大事だ。
「言葉で説明するのは難しいのだが、
菊竹さんがつくる建築は、
コンクリートにまで
菊竹さんのアイデアが染み込んでいる気がする」
「実施設計まで進んだプロジェクトであっても、
しっくりこなければ白紙に戻す」
「すでに建設が進んでいた建物に
菊竹さんが不満げなので、
担当の遠藤勝勧さんがゼネコンに内緒で
夜中に梁を壊しにいったという伝説も残る」
凄い。
周りの人も、
それがわかっていた。
「論客ではあるが論理や理性だけで
建築をつくりあげることはしない。
まるで建築の内部に身体ごと入り込んで
設計するその手法は、
若い僕の身体に染み込んだ」
私もその内部に身体ごと入り込んで、
本や雑誌をつくりたい。
「福岡の旧家だった生家は、
戦後の農地改革で没落。
戦後の民主主義が日本の伝統文化を破壊した
という怒りが菊竹さんの仕事の核にあった」
「いつも笑顔をくずさない温和な人だが、
設計となると満身から毒気を放ち、
狂気をみなぎらせた」
私がお会いしたときにも、
温和な人だった。
けれど仕事においては、
満身から毒気を放ち、
狂気をみなぎらせた。
その点で菊竹さんは、
セゾンの堤清二さんと意気投合した。
これです。
大事なのは。
これからの5日間が私のそのときだ。
〈結城義晴〉