谷川俊太郎。
「そのあと」
そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべてが終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある
そのあとは一筋に
雲の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている
訃報です。
私が渡米している間に、
亡くなられた。
中野勘治さん。
84歳。
元㈱菱食社長で、三菱食品㈱会長。
5月8日午前0時06分、
心不全のため入院先の病院でご逝去。
お元気だったのに、
本当に驚いた。
1939年7月7日、愛知県生まれ。
私よりも13歳年上。
1962年3月に慶応義塾大学商学部ご卒業。
1962年4月に日本冷蔵㈱(現在の㈱ニチレイ)入社。
ニチレイの取締役から常務、専務になられて、
冷凍食品業界に「この人あり」と言われた。
2001年1月、ニチレイの子会社で卸売業の、
㈱ユキワ代表取締役社長就任。
そして2003年10月、そのユキワと、
菱食子会社㈱リョーショクフードサービスが合併。
新会社の㈱アールワイフードサービス誕生。
中野さんはその代表取締役社長に就任。
低温卸売業で年商2500億円規模だった。
さらに2006年10月、菱食の代表取締役副社長。
2003年1月に廣田さんが会長に就任し、
後任社長は後藤雅治副社長が昇格。
2008年3月、その後藤さんのあとを受けて、
中野さんは菱食代表取締役社長に就任。
2011年には㈱明治屋商事、㈱サンエス、
㈱フードサービスネットワークの3社を、
完全子会社化。
さらに連結子会社の㈱リョーショクリカーを吸収。
三菱食品㈱に商号変更するとともに、
三菱食品代表取締役会長へ。
四社合併は中野さんが成し遂げた。
その後、2013年6月、相談役。
それから2015年7月にオフィスKを設立して、
自由に活躍した。
さらに2018年7月、
㈱ロック・フィールドの社外取締役就任。
「生涯現役」が中野さんの持論だった。
1996年、アメリカのFMIが、
「ミールソリューション」のスローガンを掲げた。
中野さんはいち早くそれを取り入れ、
「冷凍食品=弁当の具材」だったものを、
夕食のメインディッシュにすることを訴えた。
これ、私の主張と同期していた。
私は2010年8月にインタビューした。
中野さんは菱食社長だった。
「目下の最大の話題は、4社経営統合です」
「菱食を中心に、
三菱商事傘下の食品卸売企業3社の経営統合」
「㈱明治屋商事は酒類に伝統があり、強い。
㈱フードサービスネットワークは、
低温商品の機能を持つ。
そして㈱サンエスは菓子問屋として強力である。
もちろん菱食は加工食品だけで、
1兆円のスケールを持つ」
「それぞれの機能において、
製造業にも小売業にも
十分な役割が果たせる総合化を成し遂げる」
中野さんは言った。
四社合併は、
「生活編集能力の高い生活者の
ライフスタイル多様化に対応するために、
新しい中間流通として必須の機能である」
この「生活編集能力の高い生活者」だとか、
「ライフスタイル多様化」だとか、
そんな概念は卸売業からは、
出てこないものだったので、
とくに印象に残っている。
私は廣田正さんに、
大変にお世話になった。
㈱商業界の時代には、
新しい事業をコラボしてくださった。
先輩が残した負の遺産解消を、
廣田さんに助力していただいた。
それ以外にも、
廣田さんは日本の食品卸売業に、
多大な貢献をした。
だから私は何度も言ったし、
何度も書いた。
「廣田の前に廣田なく、
廣田の後に廣田なし」
中野勘治さんはそれを見ていて、
面白くなかったのだと思う。
それでも㈱商人舎発足のときには、
廣田さんにも中野さんにも、
快く発起人になっていただいた。
以来、15年。
月刊商人舎2022年9月号。
特別企画は、
「冷食」が主役になるとき
冒頭に私は書いた。
「この8月に、
中野勘治さんから葉書が届いた。
『ついに冷凍食品が
加工食品の主役になりました。
見届けられて倖いです』」
「中野さんの本来の専門は冷凍食品である。
だから冷凍食品の躍進は、
率直にうれしかったのだろう」
この特別企画を編んだきっかけも、
中野さんだった。
ずっと言いそびれていた。
遅きに失したかもしれないが、
ここであらためて言い切ろう。
「勘治の前に勘治なく、
勘治の後に勘治なし」
心からご冥福を祈りたい。
合掌。
〈結城義晴〉