将棋界が揺れた。
将棋愛好者も将棋ファンも揺れ動いた。
藤井聡太叡王に伊藤匠七段が挑戦して、
ここまで2勝2敗だった。
ともに21歳。
藤井はご存知、八冠。
将棋界の全タイトルを独占して8カ月。
タイトル戦の番勝負に関しては22連勝で、
負けたことがない。
そのなかで「叡王」は2017年に発足した、
最も新しいタイトルである。
持ち時間は互いに4時間で、
チェスクロック方式を採用する。
藤井はまったくと言ってよいほど、
欠点や弱点のないプロ棋士だが、
唯一、得意ではないのが、
このチェスクロックだ。
それもあって、
今回の5番勝負ではここまで2敗している。
プロになってからの通算成績でも、
8割を超える高い勝率を誇る。
私は朝から仕事の合間に、
アベマTVでちょこちょことチェックした。
角換わり戦という互いに精通した戦型で、
藤井が「銀のただ捨て」の手を放って、
終盤までリードした。
私は夕方の5時ごろには終わると思った。
しかし伊藤が粘りに粘った。
藤井の想定を超えた守りの手で、
逆転した。
そのあとも藤井が再逆転して、
さらに再逆転。
最後は藤井が先に1分将棋となった。
最後の最後は伊藤も1分将棋となって、
手に汗握る熱戦。
伊藤新叡王は淡々と、
低い声で語った。
「これまでのタイトル戦は、
厳しい戦いが続いていたので、
藤井八冠相手に結果が出て良かった」
藤井七冠は悔しそうに、
いつもの高い声で述懐した。
「時間の問題だと思っていた」
藤井は2020年、
史上最年少で初タイトルを獲った。
棋聖位。
その後、次々にタイトルを奪取し、
昨23年秋には最後に残った「王座」を獲得。
羽生善治も達成できなかった八冠となった。
伊藤は3度目のタイトル戦だった。
いずれも藤井八冠に挑戦して、
持将棋の引き分け1局以外は全敗。
1勝もできずに敗れていた。
しかし今回で、
藤井にタイトル戦で勝利した、
初の棋士となった。
実力制初代名人の関根金次郎には、
大阪の坂田三吉がいた。
羽生善治には森内俊之や佐藤康光がいて、
「羽生世代」を形成した。
生涯のライバルであり、
違った個性をもつ仲間であり、
絶対に負けたくない敵である。
ウォルマートにはターゲットがいるし、
シアーズローバックにはJCペニーが存在した。
巨人には阪神、
ヤンキースにはレッドソックス。
栃錦には若乃花、
大鵬には柏戸、
北の海には輪島。
貴乃花には曙。
マーケットリーダーには、
マーケットチャレンジャーがいる。
生涯実績は藤井が圧倒するだろう。
関根をはじめ、
大山も中原も羽生もそれを実証した。
しかしリーダーには、
ポジショニングが全く異なる、
チャレンジャーが出現する。
藤井聡太には同年の伊藤匠が登場した。
小学3年のときの全国大会準決勝で、
伊藤に負けた藤井は泣きじゃくった。
二人の人生は何度も絡まりながら、
これからも名局を生み出していくのだろう。
「何事も独占は許されない。
神がそれを認めない」
私はそう言い続けてきたが、
藤井聡太にもそんな存在が現れた。
これは藤井のさらなる成長を促すに違いない。
私はそれを確信して、
興奮が冷めない1日となった。
朝日新聞「折々のことば」
今日の第3121回。
編著者の鷲田清一さんは、
予測していたのか。
「これこれ
そう前かがみになっちゃあ
盤の狭いトコしか見えんし
呼吸だって苦しかろう?」
〈羽海野(うみの)チカ〉
「難局にさしかかって、
顔を盤面に近づけ、
ぐっと考え込む少年棋士に、
老師匠が、
深く息を吸い込み、姿勢を正して、
四隅の香車を見るよう諭す」
「それを『まじない』にしてごらん」と。
「それに、注意を一点にだけ集中すると、
それ以外のものに無防備になり、
自覚なしに影響を受けることになる」
藤井聡太と伊藤匠に、
こんな言葉をかける老人はいたのだろうか。
そして自分のことを顧みる。
同じ土俵の中で、
ほぼ同年のライバルはいただろうか。
いるだろうか。
短期的にはそんな風に思った人はいた。
しかし残念ながら、
生涯をかけた仕事の土俵で、
終生のライバルは存在しなかった。
それは不幸なことかもしれない。
いつも二回り、三まわりの先輩たちを、
仮想ライバルと見立てて、
自分なりに刻苦勉励してきた。
21歳にしてすでに孤高の域に達した藤井聡太に、
伊藤匠が出現したことは、
彼らにとって幸せなのだろう。
ただし私には、
3月のライオンの老師匠のごとき人たちは、
たくさんいた。
それは幸せだった。
ありがとうございました。
〈結城義晴〉