アランの『定義集』
エミール・オーギュスト・シャルティエ。
フランスの哲学者。アランはペンネーム。
「20世紀のソクラテス」と称された。
そのアランによる「暴力」の定義。
「これは一種の力であるが、
激情にかられた力、
恐怖によって抵抗を粉砕しようとする力である」
アランは続ける。
「暴力が人間に及んだ場合、
それは罪と定義される。
罰則においては反対に、
完全に暴力から純化されている」
「純化」とは、
まじりけを除いて純粋にすること。
あるいは複雑なものを単純にすること。
だからアランの言わんとすることは、
暴力が人間に及んだ時の罰則は、
純粋に単純に、暴力となっている、ということ。
アランはこれが面白いと考えた。
圧政によって民衆に暴力を行使した王は、
ギロチンという暴力によって断罪された。
私は思う。
だから暴力は、
連鎖を生む。
ある暴力を働いた者は、
暴力によって裁かれる。
そしてそれはまた、
暴力によって報復される。
結果として、
暴力は途絶えることがない。
だからどこかで誰かが、
暴力を止めねばならない。
それをしようとしたのが、
インドのマハトマ・ガンディーである。
そして米国のマーティン・ルーサー・キングである。
ドナルド・トランプ前大統領が、
銃撃された。
ペンシルバニアで選挙演説中、
120メートル離れた建物の屋上から狙撃されて、
銃弾は右の耳たぶを貫通した。
容疑者はペンシルバニアに住む二十歳の男で、
すぐに射殺された。
壇上で蹲(うずくま)り、
SPに抱きかかえられるようにして、
立ち上がったトランプは、
右耳から出血して、
白いシャツの胸元に赤い血が飛び散った。
それでも右こぶしを突き上げて、
「Fight! Fight!」と叫んだように見えた。
しかしこのFightはまた、
暴力の連鎖を生みかねない。
そこにアメリカの社会と政治の、
深い病理がある。
何はともあれ、
トランプ前大統領の命が奪われなかったのは、
幸いである。
しかし事件の数時間後には、
共和党のJ・D・バンス上院議員が批判した。
「バイデン大統領の言動が招いた事件だ」
一方で、すぐに「トランプの自作自演説」が、
ネットを中心に流れた。
この事件で民主党と共和党の支持者たちの対立は、
さらに激化するだろう。
日本でも2年前に、
安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。
1年前には岸田文雄現首相が襲われた。
平和ボケの日本でも、
「暴力」による蛮行が消えたわけではない。
アメリカ合衆国には、
国民の数より多くの銃が流通している。
アメリカの政治は、
その意味でも暴力の歴史である。
ブルース・ストークス氏が朝日新聞にコメントした。
ジャーマン・マーシャル・ファンド客員上級研究員。
「今回の事件は、キング牧師や
ロバート・ケネディ氏が暗殺された
1968年を想起させる」
「米国では、ケネディ、レーガン、
両大統領も銃撃された。
大きな懸念は、今回の事件が、
さらなる暴力の予兆となるかもしれないことだ」
「トランプ氏は選挙活動を通じて
“殉教者”になることを打ち出しており、
今回の事件はそのイメージを高める」
その通りだ。
一方、ボストン大学のピーター・スケアリー教授。
「今回の事件は、米国の政治史上、
最も危険な時期に行われる、
重要な選挙のなかで起きた」
「過去にこのような政治的暴力があったとき、
人々は一時的でも超党派の結束を見せた」
1981年のレーガン大統領の暗殺未遂事件。
さらに2017年の共和党・スカリス下院議員銃撃事件。
その後は党派対立を超えた対応がみられた。
「しかし今回は、政治的な対立を
さらに深める歴史的な契機になることは
避けられない」
「トランプ陣営にとって事件は、
有利に働くことになるだろう」
アメリカの識者の見方は、
この二人に代表さ れる。
しかし銃撃されたトランプ前大統領自身が、
「銃の規制」に反対している。
なんとも皮肉な事実が積み重なった銃撃事件だ。
アランが定義したように、
暴力は暴力を生む。
その連鎖を断ち切ることが、
民主主義を守ろうとする人たちの使命である。
それは重々わかっているのだが、
世界各国の軍事予算は拡大されるばかりだ。
それも仕方ない――。
そう考えるとすると、
暴力連鎖を止められない。
私たち自身にジレンマは跳ね返ってくる。
何とも言いようのない、
嫌な事件だ。
おそらく容疑者の思想性は希薄だろう。
だからこそなおさら、嫌な気分になる。
過激な暴力を直接行使する者は、
たいてい無知である。
それがひどく哀れでもある。
しかし私たちは何としても、
暴力の連鎖を阻止しなければならない。
それが私たちの使命である。
〈結城義晴〉