2024年のメジャーリーグが幕を閉じた。
10月最後の日。
ハロウィンの日。
ワールドシリーズ第5戦。
ドジャースが見事な逆転で、
ヤンキースを破った。
ワールドシリーズMVPは、
フレディ・フリーマン。
3番1塁手、35歳。
5試合で4本塁打、20打数6安打、12打点、5得点。
圧倒的な成績で文句なしのMVP。
この二人がチームを引っ張った。
フリーマンとムーキー・ベッツ。
そのベッツは2番ライト、32歳。
ポストシーズンを通じて活躍した。
そしてキャッチャーのウィル・スミス、29歳。
堅守とシュアーな打撃。
チャンスに強い捕手だ。
山本由伸はワールドシリーズ第2戦で、
6回3分の1を投げ切って勝利投手。
26歳、間違いなく盤石のエースとなるだろう。
オオタニなくしてシーズン優勝はなかった。
ポストシーズンにもランナーを置いて、
本塁打やヒットを打ち続けた。
左肩を亜脱臼しても、
先発1番打者でチームを牽引した。
デーブ・ロバーツ、52歳。
ドジャース監督。
沖縄県那覇市生まれ。
父はアメリカ人、母は日本人。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校卒業。
卒業と同時にドラフト指名され、
1999年から2008年までメジャーリーガー。
2004年、レッドソックス時代に、
ワールドシリーズで優勝。
2016年からドジャース監督。
以来ずっと西部地区優勝、
そのうち今年を含めて四度、
ワールドシリーズに進出し、
2020年と今年、ワールドチャンピオン。
選手よりも指導者・指揮官として花開いた。
そのマネジメントが優れていた。
読売ジャイアンツの九連覇時代。
「ドジャース野球」と呼ばれた。
長嶋茂雄、王貞治のスーパースターが、
全体を引っ張った。
そして川上哲治監督と牧野茂ヘッドコーチが、
鉄壁のチームをつくり上げた。
そのベースにあったのが、
牧野がドジャースから直接学んだ、
マネジメントとストラテジーだった。
2024ワールドシリーズでも、
そのドジャース・ベースボールが、
要所要所で顔を出した。
チームとしての役割分担。
全員の堅い守備。
いつも次の塁を狙う走塁。
ドジャースは基本的に、
守りの野球だ。
そのうえに大谷がいる。
ベッツ、フリーマンの長打がある。
最終第5戦は、
ヤンキースに5点を先取された。
ドジャースが追いついたのは、
アーロン・ジャッジの平凡なライナーの落球であり、
遊撃手アンソニー・ボルピの三塁への悪送球、
エース投手ゲリット・コールの怠慢なベースカバーだった。
ドジャースにはそれらがまったくなかった。
日経新聞スポーツ面の「悠々球論」
野球評論家の権藤博さんが書く。
「べからず集/新監督の心得」
権藤は中日でエース投手として活躍した。
「権藤、権藤、雨、権藤。
雨、雨、権藤、雨、権藤」
そういわれるほど酷使され、短命で終わった。
現役引退後は指導者として、いい仕事をした。
「DeNAが1998年以来、
26年ぶりの日本一を目指すことになり、
私が率いた当時を思い出した」
「就任1年目で優勝、日本一となった」
「60歳になるシーズンで監督に就任した私に、
ああしたい、こうしたいというものはなかった。
手のなかにあったのは、
監督としてこれだけはやっちゃいけない、
という『べからず集』だけだった」
現役引退後の30年、
いろんな監督のもとで、
投手コーチを務めた。
学ぶことができた監督はたった二人。
中日の与那嶺要監督、
阪神、南海のドン・ブレイザー監督。
どちらもアメリカ人監督だ。
あとの監督は欠点だらけだった。
ある監督は打たれるとすぐ、
2軍落ちさせて自信を失わせた。
ある監督は選手に言う前に、
マスコミに愚痴をこぼして不信感を買った。
中継ぎ投手は打たれた次の日も起用した。
敗者復活、自信を取り戻させた。
「監督になった私は仕えた監督たちと
逆のことをしただけだった」
マスコミ対応では、
選手の批判につながるような質問には、
「パス」と言って、回答を控えた。
選手に注文があるなら直接言うべきで、
新聞で監督の批判を読むなんてのは最悪。
「監督になったら、
自分の色を出したくなるだろうが、
チームづくりなどというものは、
結局選手あってこそ」
リーダーは自分を出さず、
選手を活かす。
ピーター・ドラッカー。
「マネジメントとは、
人の強みを生かすことだ」
「いる選手でできる野球をするだけで、
監督にやれるのは選手のやる気をそがない、
ということくらい」
「要は何をするかより、
何をしてはいけないか」
ロバーツ監督も同じだ。
大谷翔平も山本由伸も、
いい監督の下でベースボールができる。
それは幸せなことなのだ。
おめでとう。
〈結城義晴〉