第72回憲法記念日の続「プラグマティズム」考
72回目の憲法記念日。
快晴。
1947年、昭和22年に、
日本国憲法が施行された日。
令和元年と変わった5月1日、
「即位後朝見の儀」が執り行われた。
新天皇の国民に向けた最初の「お言葉」。
「日本国憲法および
皇室典範特例法の定めるところにより、
ここに皇位を継承しました」
今日の憲法記念日にも、
改憲論議が盛んだ。
しかし「最初のお言葉」で、
その冒頭に使われた「日本国憲法」は、
もちろん改憲されたものではない。
現在の日本国憲法は、
有名な「前文」のあとに、
11の章と103の条で構成されている。
その第一章こそが「天皇」である。
章立ては以下のようになっている。
第一章 天皇
第二章 戦争の放棄
第三章 国民の権利及び義務
第四章 国会
第五章 内閣
第六章 司法
第七章 財政
第八章 地方自治
第九章 改正
第十章 最高法規
第十一章 補足
第一章の第一条は、
「天皇の地位・国民主権」。
条文は、
「天皇は、日本国の象徴であり
日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する
日本国民の総意に基く」
我々の憲法は「国民主権」を謳っているが、
その前に天皇の位置づけがなされる。
それが日本国憲法だ。
例えばこんな文章はどうか。
――日本国の主権は国民に存する。
そしてその国民の総意に基づいて、
天皇の地位は日本国の象徴であり、
日本国民統合の象徴であると定める――。
国民主権と象徴天皇。
象徴天皇と国民主権。
日本国憲法では、
この関係は切っても切れない。
第二条は「皇位の継承」。
「皇位は、世襲のものであつて、
国会の議決した皇室典範の
定めるところにより、
これを継承する」
新天皇の「最初のお言葉」は、
この第一章第二条を示している。
第三条は、
「天皇の国事行為と内閣の責任」
「天皇の国事に関するすべての行為には、
内閣の助言と承認を必要とし、
内閣が、その責任を負ふ」
以下、第四条は、
「天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任」
天皇は国政に関する権能を有しない。
そして「国事に関する行為を委任する」。
第五条は「摂政」
「摂政」は「せんしょう」と読む。
天皇とはこの場合、
天皇に代わって政務を摂ること、
またはその役職。
万一の場合、摂政を置くことができる。
しかしその摂政も国民主権のもとに、
天皇の名で国事に関する行為を行う。
第六条は「天皇の任命権」
国会の指名に基づいて、
内閣総理大臣を任命し、
内閣の指名に基づいて、
最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条は「天皇の国事行為」
10の国事行為が定められている。
憲法改正、法律、政令及び条約の公布や、
国会の召集、衆議院の解散などなど。
第八条は「皇室の財産授受の制限」
これは国会の議決に基づく。
ここまでが第一章。
「最初のお言葉」は、
「この身に負った重責を思うと、
粛然たる思いがします」
この「重責」とは主に、
第七条の天皇の国事行為に対する、
今上天皇の責任感を意味する。
最後の言葉は、
「歴代の天皇のなさりようを心に留め、
自己の研鑽に励むとともに、
常に国民を思い、国民に寄り添いながら、
憲法にのっとり、
日本国および日本国民統合の象徴としての
責務を果たすことを誓い、
国民の幸せと国の一層の発展、
そして世界の平和を切に希望いたします」
「国民を思い、国民に寄り添い」がいい。
しかしやはり言葉自体は、
「上から目線」だ。
それが天皇である。
憲法第二章は、
問題の「戦争放棄」である。
改憲の焦点はここにある。
そして第二章には、
第九条しかない。
第九条は、
「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
「1 日本国民は、
正義と秩序を基調とする
国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する」
我々は、
戦争と武力を、
永久に放棄するのだ。
「2 前項の目的を達するため、
陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない」
しかし自衛隊の実情は、
陸海空軍である。
ここで昨日のこのブログのテーマが、
顔を出してくる。
「プラグマティズム」
戦争を望む悪魔を除いて、
改憲論者はプラグマティストであり、
護憲派は非プラグマティストであろう。
プラグマティズムの説明を試みると、
とても紙数が足りないけれど、
第1の特徴は、
唯一の絶対的真理の探究を放棄する。
それが実用主義の本質である。
科学には科学の基準がある。
宗教には宗教の基準がある。
プラグマティズムは、
多元的な捉え方を主張している。
「それぞれのドラッカー」も、
ある意味でプラグマティズムである。
プラグマティズムは第2の特徴として、
多元的な真理を許容するとともに、
民主主義的なプロセスを重んじる。
つまり他者との協力を重視する。
改憲論に関して言えば、
だから思想的にも強行突破はできない。
しかしプラグマティズムには、
鄧小平「白猫黒猫論」のごときもある。
うまくいけば他は犠牲にしてもいい。
革命とはそういうものだから、
それはそれで悪くはないけれど、
「儲け第一主義」に陥る危険性もあって、
こちらはいただけない。
儲かりさえすれば、
他は犠牲にしてもいい。
「憲法」に関する『大辞林』の定義。
「国家の基本的事項を定め、
他の法律や命令で変更することのできない
国家最高の法規範」
したがって日本国憲法に関しては、
うまくいけば他は犠牲にしてもいい、
とはならない。
もちろん日本国憲法には、
第九章「改正」がある。
その中の第九十六条は「憲法改正の手続」
「1 この憲法の改正は、
各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、
国会が、これを発議し、国民に提案して
その承認を経なければならない。
この承認には、特別の国民投票
又は国会の定める選挙の際
行はれる投票において、
その過半数の賛成を必要とする」
憲法改正の条件は、
国会議員の3分の2、
国民の過半数。
しかし国民の場合、
投票の際に「棄権」があるから、
実際は過半数以下でも可能である。
結局は21世紀に、日本国民が、
プラグマティズムを支持するのか。
だから改憲のためには、
米国的なプラグマティズムの普及、
護憲のためには、
欧州的な観念論的哲学の堅持。
そこが隠れた焦点となるだろう。
〈結城義晴〉