こどもの日の「自分のために生きる」と「みんなのために生きる」
こどもの日。
自分がこどもでなくなり、
自分の息子や娘も成人して、
「こどもの日」のこどもではなくなった。
しかもまだ孫もいないから、
「こどもの日」は遠いものとなった。
「こどもの日」の祝日は、
五節句のひとつ「端午の節句」が、
祝日となったもの。
現在は、ゴールデンウィークの最後の日。
節句は、中国の陰陽五行説に由来する。
日本にこの考え方が輸入され、定着して、
年中行事を行う季節の節目となった。
その節句の中でぞろ目の5月5日が、
端午の節句。
鎌倉時代あたりから、
「男の子の節句」となった。
祝日法の趣旨は、
「こどもの人格を重んじ、
こどもの幸福をはかるとともに、
母に感謝する」
人格を重んじる――
これが大事だと思う。
もちろん母に感謝する――
これが加えられているところがいい。
中日新聞の朝刊コラムが、
「中日春秋」
ジャン=ジャック・ルソーを引く。
1712年から1778年のフランスの思想家。
1762年発刊の斬新な教育論が、
『エミール』
今野雄一さんの訳が素晴らしい3冊。
ルソーは、人間の成長や発達は、
三つの要件によってもたらされるとした。
それが「自然」「人間」「事物」だ。
この三つの調和によって、
理想的な人間は育つ。
この書は架空の孤児エミールを、
ルソー自身が育てる。
架空の小説仕立てとなっている。
そしてルソーは二つの人間像を提示する。
自分のためだけに生きる「自然人」
(homme naturel オム・ナチュレル)
社会全体の中で自分を位置づける「社会人」
(homme civil オム・シヴィル)
この対立する二つの人間像を統合して、
理想的な人間が育つ。
自分のために生きること、
みんなのために生きること。
自分が幸せでなければ、
他人(ひと)をいたわることはできない。
弱者に対するいたわりもうまれない。
他人の幸せを願うことが、
自分の幸せになり、
それがよりよい社会をつくることになる。
その教育者であるルソーが、
「子どもを不幸にする一番確実な方法」を説く。
逆説的な教育論だ。
「それは
いつでもなんでも
手に入れられるように
してやることだ」
その通りだ。
コラムニスト。
「物に限らずだろう。
わが子の笑顔ばかりみているようなら、
幸福は子どもから遠ざかっている」
ルソーは『エミール』の中で強調する。
「子どもは大人ではない。
子どもは子どもである」
しかし子どもの自主性は、
なによりも重んじられるべきだ。
子どもに限らない。
子どもも大人も、
人間としての自主性こそが、
その尊厳となる。
子どもは大人ではない。
子どもは子どもである。
しかし大人と同じように、
自主性と尊厳は守られねばならない。
そのために教育は、
それぞれの子どもの成長に即して、
それぞれの子どもの能力を活用しながら、
行われるのが望ましい。
わが子を親のエゴで引きずり回す。
これが一番情けない教育だ。
自分ができなかった夢を、
子どもに託す。
それは悪いことではない。
しかしそこにも、
子どもの自主性がなければいけない。
こどもの日には、
なおさらそんなことを考える。
コラムはさらに米国のジョークを紹介する。
ルソーとは次元の違う話だが。
「ものごとをやりとげる三つの方法」
⑴自分でやる
⑵誰かにやってもらう
⑶自分の子どもにやるなと言う
⑶の「やるな」と言えば言うほど、
子どもは「やりとげる」。
「うるさくなければ、子どもはだめになり、
うるさくすれば、ときに逆効果で…」
これはちょっと、
嫌な気分にさせられる、
ブラックジョークだ。
産経新聞の巻頭コラム「産経抄」
江戸時代の俳句を紹介。
肩車上にも廻る風車
コラムニスト。
「昨今は肩車の親子をあまり見ない」
しかし、肩車の上で、
風車を回している子どもは、
親より高い視野で、
自分の世界を見ている。
子どもに夢を託すとは、
そういうことだ。
自分のために生きる。
そしてそれが、
みんなのために生きることにつながる。
それが幸せな生き方なのだ。
〈結城義晴〉