文化の日に首里城火災の「復旧・復興・振興」を考える
文化の日。
11月3日は明治天皇の誕生日である。
したがって昭和22年(1947年)までは、
「天長節」あるいは「明治節」の祝日だった。
昭和21年(1946年)11月3日に、
日本国憲法が公布された。
憲法が施行されたのは、
半年後の翌1947年5月3日で、
この日は憲法記念日となった。
一方、憲法公布の11月3日は、
昭和23年(1948年)から、
文化の日の祝日となった。
その趣旨は、
「自由と平和を愛し、
文化をすすめる」
しかし文化の日という祝日は、
海外にはあまり見られない。
日本独特のものなのか。
といってもその「日本独特」は、
戦後につくられたものが多いし、
明治から始まったものも意外に多い。
そしていまや、
「文化」という日本語も、
古いイメージになってしまった。
カルチャーも軽い感じだ。
「文化的だね」
「カルチャーだね」
など、日常的にもあまり使わない。
沖縄の首里城正殿が炎上した。
世界遺産に指定されているが、
あれはまさに沖縄文化の遺産だ。
ということは日本文化の遺産でもある。
沖縄タイムス。
沖縄の地方紙。
私はその巻頭コラム「大弦小弦」を、
ほぼ毎日、読んでいる。
連日、首里城の大火を取り上げる。
11月1日版は西江昭吾さんの筆。
「漆黒の夜空に立ち上る真っ赤な炎。
燃えさかる火の手に飲み込まれるように、
正殿の骨組みが崩れ落ちた」
西江さんは述懐する。
「現実のものとして受け入れられない」
これが沖縄の人たちの実感だろう。
「出火を覚知してから
瞬く間に炎が広がった。
消防は正殿内で出火した可能性を指摘する」
「一方、屋内を消火する
スプリンクラーはなかった。
防火体制は十分だったのか。
検証が必要だろう」
今から70年前に、
奈良・法隆寺の金堂から出火し、
国宝の壁画が燃えた。
理由は、
壁画を模写していた作業員が使っていた
電気座布団。
そのスイッチを切り忘れたためとされた。
この事件で、
文化財を守る意識が高まり、
文化財保護法ができる契機となった。
文化庁が8月に公表した調査結果。
国宝・重要文化財4218棟の約93%が木造。
火災の潜在的危険性は高い。
夜間の管理体制も弱い。
「対策の見直しは急務だ」
コラムニスト。
「悲しんでばかりはいられない。
首里城再建へ一歩ずつ踏み出したい」
「逆境にへこたれず、
乗り越えてきたのがウチナーの歴史。
今こそ、その底力を見せよう」
11月2日版は石川亮太さんが書く。
「秋晴れの空に映えているはずの
白と朱色の屋根は黒く焦げ、
そこに正殿の姿はない。
当たり前だった日常の風景が一変した。
首里城の大火災から丸1日がたったが、
いまだに悪夢であってほしい
との思いが去来する」
玉城デニー知事は急遽、上京。
国に早期再建への支援を要請した。
菅義偉官房長官も、
財政措や安倍晋三首相も、
政府としてシンボルの再建に動く。
県や市町村でも、募金を集める。
ふるさと納税活用の支援も検討される。
企業からも協力の声があがっている。
玉城知事は、
本土復帰50周年となる2022年までに、
再建計画を策定する考えを示した。
「ウチナーンチュが一丸となって
機運を高めたい」
そして今日の11月3日版巻頭コラムは、
内間健さんが担当。
「週末の首里城公園」
「守礼の門をくぐり城壁へと近づく」
「が、たどり着いた歓会門は
むなしく閉じられていた。
龍譚からは、県民や観光客らが、
黒く燃え残った北殿の無残な姿を見つめ、
悲しげな表情を浮かべていた」
文化財とは、
ことあるごとに訪れるものだ。
内間さんは被害の実情を説明する。
「指定管理者の沖縄美ら島財団が所蔵する
琉球王国時代の美術工芸品など、
421点を焼失。
「一方、耐火性の収蔵庫二つにあった
県指定文化財などの1075点は
消火作業に伴う水ぬれ程度で、
全焼は免れた」
県立博物館・美術館の田名真之館長は、
「再建に向け、資料を守るために、
木造でない資料を展示する施設を
別に造ることを提案したい」
「沖縄戦を含め何度か焼失し
再建されてきた沖縄の歴史を
体現している建物」
「喪失感は大きいが、
再建に向けた動きがすでに始まっている。
その思いを共有したい」
震災でも火災でも、
理由の本質は人災である。
そして再建の道筋は明白である。
国民一丸となって、
復旧、復興させ、
そして振興させる。
目に見える文化は、
長い歴史の中で、
必ず災害に遭う。
それを、
復旧させ、
復興させ、
振興させる。
ウチナンチューも、
ヤマトンチューも、
ひとつになって、
復旧・復興・振興。
それが本当の「文化」となる。
「文化の日」は、
このことを確認するためにある。
〈結城義晴〉