ステイホーム週間の「父と母の会話」
ステイホーム週間。
私の父は大正15年12月20日に生まれて、
平成26年11月4日に逝った。
生きていたら93歳。
母も大正15年3月20日生まれで、
平成30年7月31日に永眠した。
そのとき92歳だったが、
生きていたら94歳だ。
二人とも太平洋戦争を経験した。
戦後の混乱の中を生き抜いた。
いつも「大東亜戦争」と言っていたが、
父には「赤紙」が来て、
満州の関東軍に配属された。
ほとんど訓練も受けずに、
新兵たちは列車に詰め込まれて、
満州鉄道を奥へ奥へと連れて行かれた。
ある駅に来たら、
上官が新兵たちを列車から下ろした。
そして言った。
「お前たちはここから歩いて帰れ。
戦争は終わる」
それで父は命拾いした。
母は看護師で、
内地で働いた。
戦後もずっと仕事をつづけた。
福岡で出会って結婚した。
二人が生きていたら、
新型コロナウイルス感染拡大に、
なんと言っただろう。
昨日今日と一歩も外に出ずに、
家にいた。
父と母の会話を想像した。
父。
「街は静かなもんだ」
母。
「そうですね」
父。
「ステイホームなんて英語を使うかね」
母。
「でも、小池さんらしい」
父。
「コロナか?
コレラの方が怖いかな。
昔は、労咳が怖かった」
母。
「看護婦はみんなたいへんよ」
父。
「碁会所に行けないのがつらいな」
母。
「しかたないですね」
父。
「でも爆弾が落ちてくるわけではないし、
鉄砲で撃たれるわけでもない」
母。
「食べるものもあります」
父。
「ひもじい思いをすることもない」
母。
「戦争のときは息をひそめて生きていました」
父。
「満州も最後はひどかった」
母。
「広島もたいへんでしたよ」
父。
「安倍さんは軽い言葉が多すぎるね」
母。
「布マスクはかわいい」
父。
「お祖父さんの岸さんは奥が深かった」
母。
「妖怪って言われた」
父。
「今みたいなときは、
そのくらいでなければいけない」
母。
「怖い人はいやだけれど」
父。
「いろいろなことが起こる」
母。
「ずっとそうでした」
父。
「ヒトは自分の見たいものしか見ない」
母。
「それでいいのかもしれません」
父。
「見たくないものも見てきた」
母。
「それもいいんです」
父。
「いつまで続くかな」
母。
「いつまででも」
父。
「そうだね」
母。
「そうですね」
父。
「碁が打てないのがつらい」
母。
「しかたないですよ」
父。
「そうだね」
ゆったりと構えよう。
あせってもしかたない。
くやんでも詮方ない。
人の所為にするのもなさけない。
やれること、
やるべきことを、
やる。
やれないこと、
やるべきでないことは、
やらない。
いい本を読んだり、
いい音楽を聴いたり、
いい映画を見たり。
先人の言葉を思い出したり。
それでいい。
〈結城義晴〉
2 件のコメント
結城先生のブログの永年の愛読者です。毎日楽しみに致しております。
私は昨夏で還暦となり定年後、有期の継続雇用でスーパー勤務を続けております。
(残念ながら勤務先は業績不振で関西の電鉄系大手百貨店の子会社になり今年は会社分割となりました)
私の父90歳、母87歳、いづれも存命ですが要介護4の母を父が面倒みつつ休日に私が家事支援しております。
さて、結城先生のご尊父、ご母堂様の「コロナに思う会話」、とても感銘致しました。
私も父母も先生やお父上、母上より若干年下、(私の父は終戦時高校生で徴兵は免れたようです。)
「爆弾が落ちて来るわけでもないし鉄砲で撃たれることもない。」
「ひもじい思いもせず、食べるものもある」
のくだりは正に幼少期に父母や祖父母から何度も聞かされた戦時や終戦後の状況からすると今の国民の「我慢」は何と恵まれていることかと改めて痛感した次第です。
では、又、騒動が落ち着いて先生が世界各国を掛けめぐる報告を楽しみに致しております。
敬具
今泉 慶一郎さま
ご投稿ありがとうございます。
父や母の言葉は忘れてはなりませんね。
仕事も続けつつ、介護にも頑張ってください。
ご健康で。