終戦の日に「平和を踏んずけ平和を使いこなし手に入れるもの」
終戦の日。
今日はどうしても、
戦争のことを考えてしまう。
そして同時に裏返しのように、
平和のことを考えさせられる。
75年前の1945年は昭和20年。
8月14日に大日本帝国政府が、
ポツダム宣言の受諾をした。
そして8月15日には、
昭和天皇の玉音放送が流され、
降伏が国民に知らされた。
さらに9月2日に日本政府は、
ポツダム宣言の降伏文書に調印した。
中学の社会科で教わったし、
高校の日本史・世界史で学んだ。
ポツダムはドイツ・ベルリン郊外の都市。
第二次世界大戦終盤、
すでにこの年の4月30日に、
アドルフ・ヒトラーは自決し、
ドイツも5月8日に降伏していた。
残る日本に対してどうするか。
イギリス、アメリカ、ソビエト連邦の3カ国は、
首脳が参集して会議を開いた。
それがポツダム会談。
イギリス首相ウインストン・チャーチル、
アメリカ大統領ハリー・トルーマン、
ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリン。
この会議でポツダム宣言が発せられた。
現在の日本の軌道は、
この時に決められた。
ポツダム宣言は13条まであるが、
その10条に以下の文章がある。
「日本政府は日本国国民における
民主主義的傾向の復活を強化し、
これを妨げるあらゆる障碍は
排除するべきであり、
言論、宗教及び思想の自由
並びに基本的人権の尊重は
確立されるべきである」
これはそのまま日本国憲法の基本となった。
ちょっと話が長くなったが、
日本では玉音放送があった日を、
終戦の日、あるいは終戦記念日とする。
それが今日だ。
一方、アメリカやイギリスは、
ポツダム宣言降伏文書調印の9月2日を、
対日戦勝記念日(Victory over Japan Day)と呼ぶ。
8月15日から9月2日までの2週間。
当時の日本国民は、
どんな心持ちで生きていたのだろう。
父や母、叔父や叔母、
祖父や祖母のことを思うと、
胸が痛む。
それがお盆の期間中の今日だから、
なおさら父母や祖父母を思う。
日経新聞巻頭コラム、
「春秋」
「8月15日の情景には、
ひとつのパターンがある」
ある種の創られた情景。
「雑音まじりの玉音放送。
こみあげる無念。流れ落ちる涙。
敗戦を知った民草の「一億慟哭(どうこく)」
列島は震えた……などといわれる。
皇居前広場でひざまずき、
号泣する人々の写真も有名だ。
しかし、それがすべてだろうか」
「何もかもあつけらかんと西日中」
作家の久保田万太郎の句。
玉音放送の日に詠んだ。
平和とは、
「何もかもあっけらかん」かもしれぬ。
高見順も「敗戦日記」に記す。
「民衆の雰囲気は、
極めて穏やかなものだった。
平静である。
興奮している者は
一人も見かけない」
平静こそが、平和だ。
「歳月が流れ、あの戦争も
“物語”へと化していく。
創られた美談がまかり通ることにもなる」
今日のテレビの映画は、
そんな傾向のものが多かった。
「だから75年前に人々が抱いた
感情の複雑さに、もっと
目を向けたいものである」
谷川俊太郎の詩。
平和
平和
それは空気のように
あたりまえなものだ
それを願う必要はない
ただそれを呼吸していればいい
平和
それは今日のように
退屈なものだ
それを歌う必要はない
ただそれに耐えればいい
平和
それは散文のように
素っ気ないものだ
それを祈ることはできない
祈るべき神がいないから
平和
それは花ではなく
花を育てる土
平和
それは歌ではなく
生きた唇
平和
それは旗ではなく
汚れた下着
平和
それは絵ではなく
古い額縁
平和を踏んずけ
平和を使いこなし
手に入れねばならない希望がある
平和と戦い
平和にうち勝って
手に入れねばならなぬ喜びがある――
敗戦から75年経って、
COVID-19感染は広がるけれど。
それによってまた、
戦争が起きる危険もなくはないけれど。
終戦の日には、
仕事をするにも、
商売をするにも、
それらを休んで静養するにも、
読書をするにも、
音楽や絵画を鑑賞するにも、
スポーツやレジャーを楽しむにも、
平和を踏んずけ、
平和を使いこなし、
希望や喜びを、
手に入れねばならぬ。
父も母も、祖父も祖母も、
それをこそ、望んでいたに違いない。
ありがとう。
〈結城義晴〉