「いいと思う人」の「機嫌よくて実寸の人」
11都府県の緊急事態宣言は本来、
今日の日曜日2月7日が、
最後の日となるはずだった。
それでも新規感染者数は、
どんどん減ってきた。
政府の対応はあいかわらずちぐはぐだが、
全体としてみれば日本人はすごいと思う。
日本の飲食店もよく耐えている。
この週末は春真っ盛りのころのようだった。
小林一茶の俳句で、
おそらく一番好きな一句。
雪とけて村いっぱいの子どもかな
久しぶりに「ほぼ日」の巻頭エッセイ。
糸井重里さんがほぼ毎日、書く。
「今日のダーリン」
「ほぼ毎日」とは言いつつも、
1998年6月6日から、
一日も休まず書き続けられている。
昨日のエッセイは、
「この人はいいな」
と思う「いい人」を、
あたらめて、考える。
「モノをもらったとか、
世話になったわけじゃないな。
胸がすくような特技を
見せてもらったわけでもない。
気が利くなぁといつも感謝している、
こともない」
「目にいいくらい美しい人だ
ということもない」
「いつも、
機嫌よくしている
ことが多いのは、いいな」
「うん。それは、
そうとうにいいことだ」
タレントで言えば、
所ジョージなんか、
それだろうか。
「でも、さらになにか、
こころのことでありそうだ」。
「やがて、そういえば、
と気づくことになった」
「彼(彼女)は、
実の背丈のままで
生きている」
同感だ。
「ほんとうのじぶんよりも
大きく見せようとしてない。
なにか、”けっこうやるやつ”
みたいにしてない」
「知ったかぶりもしないし、
バカのふりもしない」
「言っちゃぁなんだけど
“たいしたやつ”ではなくて、
しかも、”たいしたやつ”に
思わせようとしてない」
「つまりは、その
“たいしたことない”じぶんを、
そのまま認めて、
自然に好きでいるということだ」
「”たいしたやつ”じゃないと好かれない、
などという余計な心配を
しないで生きている」
これはなかなかいない。
「で、じぶん以外の
“たいしたやつ”じゃない人を
ちゃんと認めて
自然に好きでいることができる」
これも大切だ。
小学校のクラスには、
必ず、いた気がする。
ここからが糸井流。
「正直に言うと、
若いときから、ぼくは、
じぶんが”たいしたやつ”で
ありたいと思っていて、
それができているかどうか
心配するような人間だった」
正直に言うと、結城義晴も同じだ。
「おかげで身についた技術も
あったのかもしれない」
「しかし
“ほんとにはじぶんを認めていない”人間は、
本人も、他人も、
幸せにすることがむつかしい」
逆説的な表現だが、
これも同感だ。
糸井さんの告白は続く。
「そんな心根からは、
いまは少しは離れているけれど、
やっぱり、自然に
身の丈のままでいられる人には
憧れがあって、
ほんとにいいなぁと思っている」
これも同感だ。
年を取って来てタモリなんか、
そうなってきた。
そしてさらにこれが大事だ。
「実寸のままの人には、
ほんとの伸びしろがあるね。
“たいしたやつ”にだって、
自然になってしまうよ」
もともとの実寸が大きくて、
そのうえ実寸のままで、
さらに伸びシロを伸ばした人。
ヤンキースから戻った田中将大は、
そのコメントを聞いていると、
最高の「いい人」だな。
そして商人こそ。
「いい人」であってほしい。
本当の商人は、
「いつも機嫌よくしている」
本当の商人は、
「自分を大きく見せようとしない」
「知ったかぶりもしないし、
バカのふりもしない」
本当の商人は、
「ほんとは自分を認めている」
本当の商人は、
「実寸のままの人」である。
そう、君だよ。
糸井の結論。
「できるブル、
えらブル、
知ったかブルが、
成長を止める」
最後に石川啄木。
「生活の歌」より。
いろいろの人の思はく
はかりかねて、
今日もおとなしく暮らしたるかな。
何となく、
案外に多き気もせらる、
自分と同じこと思ふ人。
何となく明日はよき事あるごとく
思ふ心を
叱りて眠る。
新しき明日の来(きた)るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど――
「いい人」になるのは、
結構たいへんなことだ。
啄木はそうなるために、
歌をつくり続けた。
今日も明日も「身の丈」で、
「機嫌よく」して生きていたいものだ。
〈結城義晴〉