塩野七生の「ディクタトール」(臨時独裁執政官)
5月の夕日。
どういうわけか、
家の私の机の本棚に、
塩野七生さんの著書がある。
『男たちへ』ではなく、
『再び男たちへ』である。
『男たちへ』を読んで面白くて、
『再び男たちへ』が出たら、
すぐに買って読んだ。
1991年4月1日である。
男たちへは、どこかへ行ってしまった。
再び男たちへ、が残った。
その第40章は、
「期限を切ることの大切さ」
最後のところで、
「ディクタトール」の話が出てくる。
古代ローマの共和政時代の官位だ。
歴史学者たちの翻訳は、
「臨時独裁執政官」。
それをマキアヴェッリは研究して、
解説を書いている。
イタリアのルネッサンス期に、
フィレンツェ共和国外交官だった。
後年は政治思想家となった。
ディクタトールは、
危機管理の対策のための制度だった。
「これは期限はかぎったとしても、
一個人に絶大な権力を与える制度で、
これに選出された者は、
独断で決定を下すことが許され、
しかも誰一人として、
その実施に際して
異議を唱えることは許されなかった」
いま、ディクタトールが必要だ。
もう、ちょっと遅いかもしれないが。
「ただし、この官位は終身どころか、
任期は六カ月と限定されていたのである」
「しかも、彼が選出された目的、
つまり非常事態に対処する
事柄にかぎってのみ
権限が与えられていたにすぎない」
「彼のもつ権力は、
非常事態の打開策の
決定と実施ということだけであった」
期間限定、課題限定、
非常事態の打開策の決定と実施、
その独裁的な執政官。
ディクタトール。
堺屋太一さんは、
「本気のプロデューサー」と表現した。
小川賢太郎さんは、
コロナ対策の「司令塔」と主張した。
塩野七生さんは、
再び男たちへの第27章で書いている。
「理(ことわり)で訴えられて、
その気になれるのは少数派に過ぎない」
「多数派とは常に、
胸を熱くする何かがないと
動かないものなのだ」
ディクタトールの独裁官であっても、
「胸を熱くする何か」をもっていなければ、
多数の人間を動かすことはできない。
つまり「ディクタトール」は、
パッションをもっていて、
それを伝えることができる人間である。
塩野さんはさらに続ける。
「知性に訴えたがり、
それで十分と考えるのは、
知識人である」
「だが、知識人必ずしも
優れた指導者ではない」
そしてキメの言葉。
「優れたリーダーとは、
良き結果を得るためには、
良くない手段に訴えるくらい、
眉ひとつ動かさずに
やってのけられる人種のことである」
ディクタトールは、
必ずしも知識人ではない。
良き結果を得るために真摯である人間。
いま、ほんとうに、
そんな独裁官が求められる。
残念ながらスガさんではないし、
アソーさんでもニカイさんでもない。
日本の政治には難しいかもしれないが、
日本の商業経営には「ディクタトール」、
「あり」だと思う。
〈結城義晴〉