ウクライナ危機の「悔しい感情」と「より良く生きること」
20世紀前半に戻っていく。
そんな不思議な感覚だ。
ウクライナ危機は、
第一次世界大戦と第二次世界大戦を、
トレースするように進行する。
前者は1914年から1918年。
その後、ロシア革命が起こる。
後者は1939年から1945年。
こちらはファシズムとの闘い。
スペイン内戦は1936年から1939年。
アーネスト・ヘミングウェイの、
「誰がために鐘は鳴る」に描かれる。
映画にもなった。
ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマン主演。
今、ウクライナのために、
国際義勇軍の組織化が呼びかけられ、
世界中から兵士が志願している。
小説や映画の世界に入っていくように。
実際には多くの人の命が奪われているのに、
私たちはそれを映画でも見るように受け取る。
ウラジーミル・プーチンは、
どう見ても悪役の頭目だ。
その顔や話しぶりを毎日毎日、
テレビやインターネットで見る。
そして感覚が麻痺していく。
糸井重里の「今日のダーリン」
「よく、とんでもない犯罪をやった人間が、
“むしゃくしゃしてやった”と言ったりする」
「”むしゃくしゃしてやった”って、
なんなんだ」
「腹が立ったので」とか、
「バカにされてると思って」とか、
そういう理由を語っているのも、
よく目にする。
「ふつうに文字を読める人なら、
こういう勝手なこと、
ぜんぶ理由にならないし、
ダメでしょうとわかるはずだ」
「ただ、言ってる本人にしてみると、
“むしゃくしゃしてやった”は
りっぱな理由なのである」
そこで糸井の告白。
「ぼくは、2月24日の
ウクライナ侵攻を知ったとき、
いままで営々と積み重ねてきた
“人間のよきもの”が、
暴力によってあっという間に
吹き飛ばされてしまうことを、
“とても悔しい”と思ったし、
口にも出していた」
「悲しいも、つらいもあるが、
悔しいの思いが強かった」
同感だ。
「そして、その悔しさを
どうしたら晴らせるかを考えた。
この思いは、正直に言えば、
いまでもずっと続いている」
20世紀にもどっていく感覚にも、
「悔しい」が含まれている。
「ただ、あれから10日ほど経って、
ちょっと思うのだ」
「ぼくは、このままだと、
“悔しいからやった”人間になる」
「なにをどうするのか、
わかってもいないままだけれど、
“悔しいから”立ち上がったでも、
声をあげたでも、
“悔しいから”応援したでも、
泣いたでも、
ぜんぶ理由にも説明にもなることはなる」
「だけど、それじゃ
“むしゃくしゃして”と同列の、
感情をぶつけるだけのものになってしまう」
とても大切な指摘だ。
「”悔しいから”のままでは、
それを晴らすために”敵”を
完膚なきまでにやっつけたくなる。
そういうことが十分に目的になりうるのだ」
「”悔しいから”とか
“憎いから””腹が立つから”では、
ぼくら小人は
“気が済むこと”を望んでしまうのだ」
だからジェームズ・ボンドか、
ゴルゴ13を刺客にして、
プーチンをなんとかできないか、
なんて冗談っぽく言ったりする。
これも映画や小説や漫画の世界だ。
「感情はあるに決まっているし、
感情は大切なものだ。
しかし、その
“悔しいから”のような感情のままでは、
どうしても争いは
泥沼のようになってしまうだろう」
小人はどうしても、
感情で動く。
「ウクライナのその当地で、
“人間として見事な人”は、
どんなふうにいるのだろうかと
想像してみる」
ここは糸井のすごいところ。
「たぶん”悔しい”や”憎い”を
原動力にしてはいなくて、
もっと”よく生きる”ことを
しているのだろうな」
泣けてくる。
そうだ。
もっとよく生きる。
「いずれは、そういう人のことも
伝わってくると思うが」
「女性のほうに、そんな人が
たくさんいそうな気がしている」
わかる。
ロシアの哲学者・文芸評論家。
ミハイール・バフチーン。
1895年に生まれ、1975年に逝去した。
ロシア革命後の混乱の中、
匿名の学者として活動した。
スターリン時代には、
逮捕され、流刑に処された。
その後は、モルドヴァの大学教師として、
半生を過ごした。
「笑いは深い世界観的な意味を持つ」
「笑いは統一体としての
世界、歴史、人間に対する
真理の本質的形式である」
「それは世界に対する、
特殊な普遍的観点である」
難しい言い回しだが、
重要な指摘である。
「この観点は世界を別な面から見るが、
厳粛な観点よりも本質をつく度が、
少ないわけではない(多くはないとしても)」
『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』
今、プーチンとロシアには、
この「笑い」がまったくない。
習近平と中国にも。
ゼレンスキーとウクライナにはあるけれど。
その意味ではウクライナへのロシア侵攻は、
やはり映画でも小説でもないのだ。
いい映画や小説はかならずどこかに、
笑いの要素が隠されている。
ウクライナ危機は、
21世紀に私たちが越えねばならない、
試練であることに間違いない。
だから、感情に流されるだけではいけない。
理性を取り戻し、
真理を求めねばならない。
そして私たちはどこかに、
「笑い」の観点をもつ必要がある。
それがより良く生きることである。
〈結城義晴〉