「惣菜の教科書」と「サミットスタディ」の自分を変える「勇気」
日曜日だけれど、
オフィスに出て仕事。
そして月刊商人舎6月号を責了。
今月はこの2冊の雑誌を読み直しました。
1993年4月刊の『サミットスタディ』と、
1994年5月刊の『惣菜の教科書』
いずれも㈱商業界の食品商業別冊号。
当時はこんなすごい別冊を、
毎年、毎年、編集し、
発刊していました。
編集長は不肖、結城義晴。
30年後の今、読み直しても、
まったく古くはない。
むしろ原点に戻って、
それぞれの問題を、
根本から組み立て直すことに役立つ。
「いっさいの事柄は物憂(ものう)く、
誰も語り尽くせはしない。
目は見て、
飽きたりることなく、
耳は聞いて、
満たされることはない。
かつて起こったことは、
いずれまた起こり、
かつてなされたことは、
いずれまたなされる。
日の下(もと)に、新しいことは
何一つ存在しない」
〈『旧約聖書』「コーヘレイト書」より〉
30年間、次々に、
イノベーションを果たした企業と、
それができずにそのままだった企業。
大きな差がついてしまった。
そこに新興企業が登場し、
「後進の先進性」を享受して、
一番先頭のところをスタート地点として、
どんどん先に進む。
するとまた格差が広がる。
しかし、
かつて起こったことはまた起こり、
かつてなされたことはまたなされる。
新しいことは何一つない。
だから30年前のものが、
いま、大いに役立つ。
「すぐ役立つものは、
すぐに役立たなくなる」
けれど、
すぐに役立たない真理は、
追求し続ければ、
ずっと役立つことになる。
朝日新聞「折々のことば」
第2400回。
現代人は
「仕方がない」が
苦手である。
何事も
思うようになると
なんとなく思っている
風情である。
(養老孟司)
「人生をふり返れば、
努力ではなく
“いつの間にかそうなっていた”ことが
ほとんどだ」
「今更打つ手もない。
だから”仕方がない”。
何かを思いどおりにしたくて使う身体、
もっといえばその身体を使う”私”が、
じつはもっとも
思いどおりにならないものなのだろう」
「アステイオン」第96号、随想「人生論」から。
仕方がない。
いつのまにかそうなっていた。
それがほとんど。
それでもいい。
養老孟司さんは解剖学者、医学博士。
2003年刊の『バカの壁』は、
450万部のベストセラー。
「変わっていくこと、
それが学ぶということ。
知るということです。
自分が変わっていなかったら、
何も学んでいないと思えばいい」
旧約聖書は教える。
「日の下に、新しことは
何一つ存在しない」
けれど自分を主語にすると、
自分が変わっていたら、
何かを学んだことになる。
「壁は全て、
自分が作っている」
「確かに自分を変えるのは
怖いかもしれない。
どうなるかが、
予想できなくなるからです。
だからこそ、
勇気が意味を持ってくる」
勇気とは、
未知なる世界に一歩、
目隠しで踏み込む、
心の在り方である。
〈結城義晴〉