「空樽は音が高い」とわが母校の校風を変えた男
三連休の中日。
2月期決算の企業にとっては、
ありがたい最後の稼ぎ時か。
朝日新聞「折々のことば」
第3008回。
Empty vessels make the most sound.
(英語のことわざ)
「空(から)の容(い)れ物が
いちばん大きな音を立てる」
明治期の邦訳、
「空樽(あきだる)は音が高い」
さすがに、うまい。
「頭が空っぽのやつほどがなり立てる。
よく知りもせぬことを自慢げに話す」
そんな意味。
以て自戒とすべし。
編著者の鷲田清一さん。
「思慮ある人は穏やかに語る。
話しかける相手への敬意がある。
何がどこまで言えるかつねに吟味している」
そうありたい。
「昨今の政治の言葉に欠けるのは
そのような言葉の厚みではないか」
言葉の厚みに欠ける代表選手は、
岸田文雄、その人だろうか。
これを否定する者は少ない。
しかしパー券キックバックに端を発した裏金問題。
今は「空樽」たちも無言、無音だ。
日経新聞最終面の「交遊抄」
高校時代の後輩が登場した。
工藤誠一さん。
聖光学院中学校高等学校校長。
私が8期卒業で、
工藤さんが11期。
私が高1のときに、
工藤さんが中1で入ってきたことになる。
当時は知らなかった。
数年前に、一度、お会いした。
優れた教育者だ。
タイトルは、
「自由人から学ぶ」
「母校の校長となって20年。
私の教育方針は生徒を、
“学校に縛り付けない“」
結城義晴のモットーは「邪魔をしない」
「校外での学びに積極的に出す。
規則はあるが例外を認める」
素晴らしい。
工藤さんが単なる進学校を、
ユニークな中高一貫校に変え、
進学率はさらに高まった。
「しなやかな教育方針は、
同級生で作家、たくきよしみつ君の
影響といっても過言ではない」
「中学入学時に出会い、
同人誌を立ち上げたり、
私が詩を書いて、
彼が作曲したりしたこともあった」
私の中高時代とよく似ている。
私たちは同人誌の「孼」(ひこばえ)をやっていた。
国語のS教師が指導してくれた。
いい先生だった。
私たちの先輩はオフコース。
小田和正さんは3期生。
プロになる前に、
ヤマハライトミュージックコンテストに出場して、
準優勝した。
優勝はあの「赤い鳥」だった。
赤い鳥は優勝のご褒美で、
アメリカに行った。
オフコースは母校に来て、
後輩たちの前で歌った。
ラ・ムネホールという講堂は、
横浜で一番優れた音響設備だった。
その舞台の上でスポットライトを浴びて、
ギター2本とウッドベースの3人は、
ピーター・ボール&マリーを歌った。
もう、素晴らしかった。
今でも耳に残っている。
翌日に学校には、
何十というバンドが生まれた。
私もすぐに3人組のバンドをつくった。
城戸康と篠田宏。
たくきよしみつ君もバンドをつくった。
そして小田和正を追いかけた。
工藤さん。
「歌手を目指していたよしみつは
髪を伸ばしていた」
「体育の教師に
規則通りに切るよう指導されたが拒絶」
多分、この教師は柔道を教えていたY だと思う。
「だったらクラス全員で校庭を走れ」
連帯責任。
工藤さんは、
「髪を切ったらよしみつがよしみつでなくなる」
と反論した。
以来、仲は深まった。
「長髪を通したよしみつは
高校の卒業式に出られなかった。
大学は出たが就職はしない。
音楽活動の傍ら、30代半ばで
小説すばる新人賞を受賞。
狛犬(こまいぬ)研究にものめり込んだ」
工藤校長。
「自由に生きたって人生は送れる。
生き方は多様でいい」
同感だ。
私は中学高校時代に、
いい思い出もたくさんあるが、
全体として明るい日々ではなかった。
もちろん青春は暗いものだ。
まだ出来立ての学校で、
優秀だが寄せ集めの教師ばかりで、
結果として閉鎖的な校風が醸成されたのだろう。
それでも「紳士たれ」の学校の基本精神は、
私のDNAとなっている。
工藤さんは閉鎖的なものを、
しなやかで多様性のあるものに変えてくれた。
たくきさんが工藤さんに影響を与えた。
「教育者として彼から学ぶことは多い」
音が高い空樽のような教師もいたけれど、
今、わが母校は、
濃厚な中身の詰まった樽になって、
多くの優れた人材を輩出している。
ありがとう。
〈結城義晴〉